■ 今期、一番の楽しめるアニメに成長していた ■
今期アニメは良作揃い。その中でも「ネタもの」としてキラリと輝きを放つ『サムライフラメンコ』が、なんだかトンデモ無い事になってきています。
実ヒーロー物に見る日米の違い・・・『サムライフラメンコ』VS『キックアス』
ヒーローをこよなく愛し、とうとう現実世界でヒーローの真似事を始めたイケメン・モデルの羽佐間 正義(はざま まさよし)。最初のうちは、タバコのポイ捨てや夜中のゴミ出しを注意する程度のしょぼいヒーローでした。しかし、本人の努力と協力者の出現で、どうにか暴力団相手でも正義を遂行出来る様になりました。文房具メーカーの技術者が開発するのは、「怪しげな強化文房具」。文房具ならば「銃刀法」に違反しないという配慮です。可愛らしいフラメンコガール達も加わって、日常ヒーローアニメとしては、それなりに面白い作品になっていました・・・7話の途中までは・・・。
この作品の笑いの構造は、「非日常である「ヒーロー物」を、現実世界で実現しようとすると、こんなにトホホな感じになっちゃう」というギャップの面白の面白さ。若干のリアリティーと適度な人情をスパイスにして、そつなくまとめる手際は流石は倉田脚本です。
「きっとこうなるだろう」という視聴者予想を毎回微妙に外しながら、Cパートで爆笑させられる事の連続。
■ アレ、シリアス展開になったぞ ■
でも、この作品、2クールもあるのに、このまま日常ヒーローが続くの?って少し心配もしていました。ネタにも限りがあります。
ところが、7話でガラリとシリアスな展開に。
すっかりご当地ヒーローとして人気が定着したサムライフラメンコ。しかし正義(まさよし)は祖父の遺品から、自分の両親が海外で事件に巻き込まれ殺された事を知ります。祖父が彼の為に残したサムライフラメンコというヒーローは、復讐の為のキャラクターだった事を彼は知る事となります。
彼は悩みます。「幼い頃に死に別れた両親の仇をうつのはヒーローものの定番です。でも、僕には怒りが湧いて来ないんです。なんか、面倒くさいというか・・・。だって両親の顔すらも知らないんですよ。何か他人事というか・・・こんなのヒーロー失格ですよね・・・」
これまでのお笑い路線から一転してシリアスで重たいムードが漂います。
そんな彼を救うのは、何かと正義の面倒を見る警官の後藤の一言。「俺はお前の事、最初は変態だと思っていた。それは今でも変わらない。ただ、お前のおかげで街が少しずつ変わって来たのを見て、今ではお前は、イイ変態なんじゃないかと思う様になった」
この作品の最大の魅力は、実は後藤の言動です。唯一現実的な視点を失わない後藤が、ヒーロー趣味の困った人達に手を焼きながらも、彼らを後藤なりに理解しようとする姿に視聴者はホロりとします。
良い年をしてアニメに夢中になっている私の様なオタクへの救いの言葉の様にも聞こえるからかも知れません。アニメなんて非現実的なものと、どう折り合いを付けるか悩む私達に対する救いが後藤の存在だったのです。
ここまでの展開は「日常に挿入された非日常」でした。
「日常のリアリティー」の中に、「正義ごっこ」という「ありそうであり得ない非日常」を挿入する事によって生まれるシチュエーションを、第三者の視点でヌルク眺めて楽しむという行為は、ある意味、アニメを見るという行為のメタファーでもあり、をれを意図的に視聴者に提示するこの作品は、なかなか食わせ物でもありました。
■ いきなりの展開に視聴者も大混乱 ■
ところが7話の後半で、視聴者はショックを受ける事になります。
ある程度の事ではビックリしないアニメファンの多くが、「ビックリした」とか「ウソだろう!?」って2chに描きこむ展開とは・・・・?
何と、本当の怪人が出現してしまったのです!!
そこそこの人気者になったサムライフラメンコに警察もあやかろうとします。彼を一日署長にして、麻薬売買の逮捕現場に立ち会わせ、警察の人気向上を図ろうと、後藤の上司が計画したのです。・・・これまた「ベタな展開」とニヤニヤしながら落ちを待つ視聴者は、本物の怪人「ギロチンゴリラ」の出現に唖然。
警官の首は飛ぶし、窓から地面に死体が放り出されるし・・・これまでの、トホホ・ホノボノ展開からは信じられないグロテスクな描写に、これはきっと「夢落ち」に違いないと解釈が飛び交いました。
丁寧に作り上げてきた物語世界を根本からひっくり返す展開に、さすがにファンからも疑問の声が上がります。「これだけは、やっちゃいけなかった」というのが正直な感想です。
■ 日常に呑みこまれた非日常 ■
「きっと夢落ちか、警察のキャンペーンで特撮映像を撮っているのさ。」そんな展開をファンは予想していました。
しかし、8話の冒頭、怪人とサムライフラメンコの戦闘が始まり???状態に。さらには、後藤が拳銃を発射してサムライフラメンコを援護しています。戦闘員達を、フラメンコガール達が痛めつけています・・・。
殉職した警官達の葬儀のシーンも描かれ、どうやら「悪の秘密結社」も「怪人」も現実?の存在らしい事を視聴者は認めざるを得なくなります。
しかし、現れる怪人達が、これ又、ヒーロー物のお約束の如く「トホホ」なキャラクター。「宙吊りトンビ」だとか、鍋のパンツを履いたサイだとか、ヤンキー暴走族のコブラだとか、極めつけは三角木馬の怪人まで登場する始末。
ところが、政府も市民も警察も後藤も、このあり得ない怪人達を現実として受け止めています。物語世界の中では、実際に警官が殉職し、市民にも脅威が及んでいるのですから、政府も閣議で対応を検討します、警察も怪人撃退にその名誉を掛けます。
一方、サムライフラメンコとフラメンコガール達は本物の怪人の出現に意気揚揚。それこそが、彼らが望んでいた「あり得ない現実」だったからです。週替わり(笑)で登場する怪人に、特訓の末に勝利し、それが2か月も続いている事が、後藤と正義の会話から明らかになります。
もう視聴者はビックリするどころか呆れてしまいます。あれ程丁寧に日常を積み重ねる事で、「あり得ない現実」であるサムライフラメンコを見事に日常に親和させていたのに、ここでその構造をブチ壊す意味が分かりません。
しかし、よくよく見ると非常に興味深い。
7話までは「日常に非日常が浸透」していました。
ところが、8話の展開は「非日常が日常に飲み込まれ」ています。
■ ヒーロー物を成り立たせる為の条件 ■
非日常(非現実)であるヒーロー物を成立させる方法は二つあります。
1) ヒーローが居る世界そのものを当たり前として描く
2) 怪人やヒーローの存在を成り立たせる科学的ギミックを用意する
1)の例は「怪傑ライオン丸」や「黄金バット」の様に、戦前の紙芝居から発生した初期のヒーローに該当します。ヒーローはどこからとも無く現れる存在で、その正体は重要ではありません。悪が存在し、それを制裁するヒーローが存在する事が当然として描かれています。作品の世界の人達は、ヒーローの存在を始めから全肯定しています。この世界感は「戦隊物」に継承されて行きます。どこからとも現れる敵と、超自然の力によって生まれるヒーロ。(たまに科学的に生み出されますが・・)
2)の代表例は「仮面ライダー」でしょう。先ずヒーローを科学的に存在させる為に「改造人間」という科学のギミックを用意します。悪の秘密結社のショッカーの力も、優れた科学力によって成立します。
ところが、時代と共にこれらの方法論は「子供騙し」として陳腐化し、ヒーロー物は衰退期に入ります。
時代が平成になった頃、ウルトラマンと仮面ライダーが復活します。
この二作に共通するのは、ヒーローや敵を「不可知」の存在として描いた事です。単純な宇宙人や改造人間とする事を避け、ヒーローに神話的な背景を与えたのです。こににより、ヒーローはある種の「神格」を獲得します。その自出を問われる事無く、悪に対峙する善として始めから肯定された存在なのです。これは、初期のヒーローに近い設定です。
一方で、ヒーローをリアルに見せる工夫もなされます。ヒーローが登場した時、治安部隊はヒーローを「敵性」と認識し、排除対象とします。ヒーロー達が敵を撃退し続け「実績」を出した時点で、初めてヒーローとして認められていきます。現代のヒーロー達は、先ずヒーローとしてのアイデンティティーの確立に努力が求められるのです。彼ら自身、ある日突然、人間からヒーローになるので、自我が崩壊しそうな状況に置かれます。
この様な「リアルヒーロー」ものは日本だけでなく、「バットマン」の近作などでも顕著な傾向です。ヒーローを見て育った世代が表現者となる時、彼らは大人になる過程で喪失したヒーローを、大人の視点で再び確立する必要があるのでしょう。「子供だまし」と言われないヒーローとは何か・・・・現在のヒーローに与えられた使命だとも言えます。
世界設定もヒーローの戦う動機も、以前の作品に比べて圧倒的にリアルになった事で、非日常的なヒーロ達が日常性(現実性)を獲得したのが現在であるとも言えます。
■ 極めて逆説的な手法で日常に飲み込まれたサムライフラメンコの非日常 ■
一方、サムライフラメンコの怪人達は、極めて伝統的な手法で日常に乱入して来ます。
それは「突然始まる殺戮」です。
いきなり、怪人が現れ一般市民を殺戮すれば、「悪の存在感」は一瞬にして確立されます。ヒーロー物でのヒーローの成立条件は「悪を倒す事」ですが、その為には悪は絶対的脅威である必要があります。
ところが、『サムライフラメンコ』の悪は伝統的に絶対的脅威ではあるのですが、それに対抗するサムライフラメンコがトホホな御当地ヒーローなので、悪もあっという間にトホホな存在に格下げされてしまします。これは言う成れば、「非日常である悪役が、あっという間に日常に飲み込まれた」状態です。
作中でも、怪人への対応を検討する閣議の緊張感は、日が経つにつれて失われて行きます。変な怪人が出現し、何故かご当地ヒーローに倒される事が日常化してしまったのです。
私達視聴者が、『サムライフラメンコ』に当惑するのは、「存在しないはずの悪の組織」が登場し、それがあり得ない事にあっさりと作品世界の日常に飲み込まれてしまったからでは無いでしょうか?
作品の序盤は、徹底的に「非現実としてのヒーローや悪の存在」を否定していながら、いきなり「非現実的な悪」が登場し、これにヒーロー達が「現実的」に対応しています。この違和感は多分、かなり意図的なものです。
「非現実」と「現実」の対立は、ヒーロー物に限らず、フィクションに付きまとう命題ですが、『サムライフラメンコ』ははたして、これをどう料理して見せるのか?
「リアルヒーロー」ものや「ヒーローもののパロディー」も出尽くした感じの現代において、サムライフラメンコの提示する悪とヒーロ、日常と非日常の関係は、極めて重層的でかつ複雑です。
今季一番の「ネタアニメ」は、もしかすると今季一番の問題作になるかも知れません。