■ 最近の秋葉原に行かれましたか? ■
失われた20年を生きる私達日本人は最近めっきり自信を喪失しています。
”Japan as NO.1"などと言われていた時代を、遠く懐かしく思います。現在の世界状況は”Japan”を”China”に置き換えると非常に当時と似ている気もします。GDPでも中国に抜かれ、日本はこのまま世界の二流国へと後退してしまうのでしょうか?
しかし、視点を文化に移してみると、”Japan as No.1"の状況が出現しつつあるのでは無いでしょうか?日々忙しく働くお父さん方はお気づきで無いかもしれませんが、秋葉原や中野や池袋は世界の”OTAKU”の聖地と化しています。
最近の秋葉原に行かれた方はご存知の様に、かつての電気街の面影は今は無く、ビルの外壁をアニメの巨大なキャラクターが覆い尽くすこの街は、現在世界で一番ストレンジでクールな街です。その証拠に大勢の外国の方が訪れています。
以前はいかにもオタクと言った風情の外国人が多かったのですが、最近は家族連れを良く見かけます。言葉も英語、フランス語、ロシア語から東欧系と思しきものまで様々です。
■ 世界の覇権と「文化」 ■
「文化」と言うと高尚に聞こえますが、世界の覇権は「大衆文化」に支えられています。
近代を例に取っても、ルイ王朝から市民革命、ナポレオンの台頭と大陸ヨーロッパで覇権を誇ったフランスはこの時代に文化の絶頂期を迎えます。
その後、覇権を握ったイギリスの文化は、日本人には明治維新後の「西洋文化」と認識され、ヨーロッパ文化のスタンダードと捉えられています。
一方、第二次世界大戦後は「アメリカ文化」が世界を席捲します。多くのTVドラマや映画を通して、人々はアメリカの文化に感化されました。解放後のロシアに最初に進出しロシア人を喜ばせたのはマクドナルドというアメリカの食文化でした。
■ 世界標準の「アニメ」や「マンガ」 ■
日本では「アニメ」や「マンガ」などは市民権を得たとは言え、未だに文化的には日陰者の扱いです。しかし、現在の世界の人々が興味があるのは、「お茶」でも「禅」でも無く、日本の「アニメ」や「マンガ」です。
私達が「アメリカ文化」をイメージした時に思い浮かべるのいが、「スーパーマン」や「スタートレック」やあるいはハリウッド映画の数々である事と同様です。ノーベル賞作家のソール・ベローやフォークナーを引き合いに出す人は少ないはずです。
フィリピンの刑務所の体操が「ハルヒ・ダンス」だったり、パレスチナのデモ行進の旗の中の「涼宮ハルヒ」に旗が混じって振られている映像がCNNで流れる程に、日本の文化は世界に浸透し支持されています。
現在の世界の「文化覇権国」は、間違いなく日本でしょう。
最近は韓国に押されているとは言え、日本のカメラも家電品も車も絶大なブランド力を誇っています。誰もがMAID IN JAPANを欲しがり、誰もが日本文化にあこがれる・・・これは「日本が現在の覇権国」である事の顕れではないでしょうか?
■ 「日本文化」を知らない日本人 ■
日本の「文化人」と言われる人達や、「知識人」と言われる人達の価値基準は、未だに「過去」や「西洋」にある様なので、「オタク文化」の最先端を理解出来ない人が多い様です。
手塚治や宮崎駿の名前しか知らない日本人では、現代の海外の若者の興味を満足する事は出来ません。
日本で放送されたアニメは瞬時にネットにアップされ、瞬く間に世界各国の字幕が着けられて世界中の若者がそれを夢中になって見ています。日本の若手のアニメの監督の名前なら、海外の若者の方が良く知っているかもしれません。
尤もこれと似たような状況はアメリカ文化にも言えるかも知れません。アメリカン・ニューシネマの監督の名前や、フリージャズのプレーヤーの名前は、一昔前の日本人の方が、一般のアメリカ人よりも余程知っていた時代がありました。
■ 「萌え」の裏側にある「オタク文化の真髄」 ■
前置きが長くなりましたが、日本のアニメやマンガが何故面白いかというと、それは「萌え」や「オタク」を支える「文化の屋台骨」がしっかりしているからです。
「萌え」や「オタク」はアニメやマンガを加速度的に「消費と再生産」を繰り返した結果現れた、水面のさざ波の様なものです。その下には何十年もの「アニメ」や「マンガ」の文化の蓄積があります。もっと遡れば、江戸時代の「黄表紙」や平安の「絵巻物」に行き着くのかも知れません。
日本の子供達の日常的に触れる「マンガ」や「アニメ」や「ライトノベル」は、文化の積層から浮き上がってくる泡の様なものです。それらの中では難解なSF的なレトリックが駆使され、男女の心の細やかな機微が繰り広げられています。若い作家達は、何代にも渡って純化され精製された「表現の結晶」を最初から手にしています。後は新しいアイデアと情熱さえあれば、そこそこの作品が量産されるのです。
台湾や韓国、中国がいかに真似ようとも、今後10年は日本に追いつけない程の蓄積が日本にはあります。
■ 五十嵐大介の「SARU」は日本マンガの水準を世界に知らしめる ■
以前、このブログでも「海獣の子供」を取り上げた五十嵐大介は、現在日本のマンガの水準の高さを知る上で最適な作家です。
その五十嵐大介の新作「SARU」の下巻がようやく発売され、完結しました。
上下二巻というコンパクトな内容ながら、「世界の理(ことわり)」に迫ろうとする大作です。
(ここからネタバレ)
フランスで交通事故に巻き込まれた少女に悪魔が取り付きます。バチカンから覇権されたエクソシストのカンディドは、悪魔祓いを試みますが、少女は突然「自分は斉天大聖・孫悟空」と名乗ります。
俺は「ハマタン」と呼ばれ、俺は「トロラック」と呼ばれる・・・俺は「ドゥナエー」、俺は「内臓を晒す者」、俺は「ヌヌマーン」、俺は「トート」、俺は「ヘルメス」、・・・そしてこうも呼ばれている。俺は「東勝神洲傲来国は花果山の生まれ。水廉洞主人たる天生聖人にして美候王・・・斉天大聖・・孫悟空」
彼は古代より人々に恐れられた「猿」の一部であると名乗ります。かつて世を支配した「猿」は「身外身」によって自在に体を分裂させ、何十、何百という分身を作っては又統合を繰り返してきました。
あるとき2頭の「身外身」が突然変異し統合を拒みました。そのうちの一体は「身体」だけの存在となり、もう一体は「精神」だけの存在となり更なる進化を遂げて行きます。
その後、世界は「身体」と「精神」という二つに「猿」の戦いのバランスによって均衡を保つようになります。しかし、そのバランスが崩れはじめました。「身体」が「精神」を滅ぼし始めたのです。
「精神」は何千、何万の「猿の家系」の人々に憑依し、分散して収容されていますが、その人々を「身体」の手先が抹殺し始めたのです・・・そう「猿」達は語ります。
「身体」はキリスト教の遺物、アーロンの杖の力で、インカを滅ぼしたピサロを復活させ、黒魔術と反魂術を駆使して、「精神」の欠片の人々を抹殺していきます。
「身体」に対抗できるのは、古代から人々に伝わる「歌と舞踊」。それらは空気を震わし、退魔の波動となって「身体」から人々を守ってきました。ところが、伝承の途絶や社会の変化が退魔の「歌」の力を弱め、「身体」と「精神」のバランスが崩れ、そして今まさに「身体」が復活せんとしているのでした。
復活した「身体」は巨大な低気圧の衣をまとい、その進路の都市を破壊し尽します。あらゆる軍事攻撃を跳ね除け、さらにはそのエネルギーをも吸収して成長する「猿」前に、人類は存亡の危機を迎えます。
最後の望みのロマ族に伝わる「歌」だけ・・・。はたして人類の存亡や如何に!!
■ 文章では表現出来ない面白さ ■
文章にすれば何と陳腐なものになってしまうのでしょう。しかし、五十嵐大介の「不定形なタッチ」で描かれるマンガは、ページから呪術的な力が立ち上ってきて、こんな荒唐無稽な物語に存在感を与えてしまいます。
歴史も宗教も伝統も人種も政治も軍事も恋愛も、そして全世界をも丸呑みにして、話は結末へと「ズルズルと力強く」進んで行きます。
こんなジャンルを超越して強引な作品がかつてあったでしょうか?
手塚治の蒔いた種は、今、五十嵐大介として育ち、「SARU」という作品で花を咲かせました。
これが現代の日本のマンガ、いえ「文化」の到達点でしょう。
村上春樹のノーベル賞落選に落胆している人達には分からない、自由でエネルギッシュな日本文化の現在の姿です。
「読まずに死ねるか!!」・・・をう叫ばずには居られないお勧めのマンガです。