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世界って本当はこうなんだ・・・「陰謀論」を突き付ける『残響のテロる』 ■
渡辺信一郎が監督し、菅野よう子が音楽を担当する事から、前評判と期待の高かった
『残響のテロル』 ですが、作品のクイオリティーの高さにも関わらず、アニメファンの評価は低い作品となってしまいました。
その原因は「アニメファンの期待を裏切る」作品だったからでは無いでしょうか。アニメファンがこの作品に期待したのは、絶対絶命の状況に置かれた主人公達が、友情や愛情でその状況を乗り越えて行く感動物語だったと私は妄想しています。
それに対して、渡辺信一郎監督は「世界は本当はこんななんだよ」「国家権力は暴力機構なんだよ」「日本はアメリカに支配されているんだよ」といった、「世界の真実の姿」をストレートに視聴者に突きつけています。主人公達は物語を進行する為の道具であって、物語の主体では無いのです。
視聴者は敏感ですから、その点を鋭く嗅ぎ取っています。
■ 放送限界に挑む「陰謀論」的内容? ■
第一話の都庁の「爆破解体テロ」は、911の映像そのもので、テルミットによる鉄骨溶断という手法も、911の陰謀論で指摘されているものです。よくこの内要を深夜アニメとはいえ放送出来たと驚きを禁じ得ません。それ以外にもCIAが日本国内で我がもの顔で暗躍したり、政府の秘密に迫る警察官が左遷させられたりと、エグイ内要のオンパレードです。
本来、アニメやSFという表現手法は、告発的な内要を『サイコ・パス』の様なフィクションの中に隠す事を得意としていますが、この作品ではストレートに陰謀論を展開しています。ネットが発達して子供達ですら様々な陰謀論にアクセスできる現代だからこそ許される表現とも言えます。
■ 「オシャレ・テロ」 ■
一方、「伝えたい」という意識が先だって、人物描写が薄くなった事に視聴者は苛立ちを覚えている様です。
「結局、オシャレ・テロ以外の何物でも無い」 と総括している様です。
ところで、「テロ」と言えば「イスラム教徒の自爆テロ」をイメージしてしまう昨今ですが、一昔前にテロと言えば、
共産主義を信望するエリートな若者が道を誤って起こす犯罪 でした。
テロという言葉には、そこはかとないインテリジェンスの香りが漂っていました。
「赤軍派」や「赤い旅団」「IRA」などもかつては、頭デッカチな若者達の支持をある程度得ていたとも言えます。国家や既存の社会システムに対する若者の無意識の反抗の顕現として「テロ」が存在していたとも言えます。
しかし、イスラムテロが無差別に人々を殺害する報道に日々触れる中で、「テロ」の神聖さは失われ、「テロ=人殺し」という現実に収束して行きます。これはテロの幻想が剥がれて、テロの本質がむき出しになっただけの事ですが、私達はテロの実体に気づくのに多くの時間と犠牲を費やしたとも言えます。
『残響のテロル』は、「テロ」をあえて「テロル」と表記するなど、テロに神聖が宿っていた時代のテロを再び描きたかった様ですが、現代の血なまぐさいテロに慣れた視聴者には、かえって「嘘くさい」ものに感じられる様です。「オシャレ・テロ」などという評価がそれを如実に表しています。
■ 「陰謀論慣れ」してしまった若者 ■
渡辺信一郎はこの作品で世界の本当の姿を告発したかったのでしょうが、ネットで陰謀論に慣れ親しんだ若者には「ああ、あの話ね」とスルーされてしまい、ショックを与える事すら出来なかった様に感じます。これは『革命機ヴァルヴレイヴ』の「世界の真実を暴く」事の大失敗にオーバーラップします。
実はネットの陰謀論に慣れてしまう事は、非常に恐ろしい事で、「世界なんてそんなもんでしょう」という諦めに近い気持ちに囚われる事で、そこから先にどうしたら良いのかという思考が止まってしまいます。
■ 最後の踏込が甘かった? ■
一方、『残響のテロル』で最終的に告発されるのは非人道的な人体実験という日本政府の罪でだけでした。アメリカの日本支配や、それを脱する為の日本の核兵器開発は表沙汰にされてはいません。その事が、9や12のテロの遂行目的を妙に矮小化してしまった様に感じられます。
「自分達の苦悩を知ってもらう」為に核爆弾を爆発させるというのどうなのよ?という気分にさせられます。日本の独自核兵器開発は、アメリカの支配から脱する為の日本政府の戦略だったのでしょう。子供達の能力開発も、倫理的には正当化されませんが、国家間のパワーゲームの前には必要な事と判断されたのかも知れません。少なくともこの作品の中の政治家や官僚は日本の将来の為の行動をしており、単純に断罪されるべき存在とは思えません。9や12は私怨から、敵を完全に見誤っている様に私には感じられます。ここら辺の歯切れの悪さが一般放送されるアニメの限界なのでしょう。「敵はアメリカだ!!」とは言えない。
『コードギアス』はアメリカを神聖ブリタア帝国にカモフラージュしてこの点を追及しています。或いは『革命機ヴァルヴレイヴ』はイルミタティー的組織の存在を匂わせようと腐心しています。ただ、やはり表現が婉曲で、視聴者の子供達にその真意はなかなか届きません。
そこに行くと、10年以上前の作品の『ガサラキ』の方が踏み込みが深かったと思います。日本のアメリカ支配からの独立の為に「アメリカ国債の売り浴びせ」などというタブーを最後の切り札に使っていました。
いずれにしてもネットの時代には「真実の告発」ですら日常的なネット風景に埋没してしまうと感じさせられる作品です。
■ 9や12の人間性回帰の物語であれば、もっと感動出来たのでは? ■
個人的な希望を言えば、CIAの絡みは要らなかったのではないかと思います。表現がハリウッド映画の様な薄っぺらなものになっている気がします。もう少し、テロリストVS刑事の頭脳戦を堪能したかた。彼らのテロで予期せぬ犠牲者が出て、9や12が葛藤するというシーンがあった方が、テロという行為に現実性が増したとも思えます。「正義が必ずしも万人の正義で無い事」を、アニメと言えどもしっかり描くべきだったのでは無いか・・。
それと、最後までミサの存在が中途半端でした。9と12を「ナイン」と「ツゥエルブ」と呼ぶ所も彼女らしく無い。もし彼女が彼らに「呼び名」や「あだ名」を付けてそれを呼んだとしたら、この作品に血が通ったのでは無いか。存在を失った若者の存在回復のストーリーとして魅力ある作品になったのでは無いか・・・・そう思うと残念で仕方ありません。
■ 人が死なないならテロは正当化されるのか ■
最後に「人が死なないならテロが正当化される」のかという問題。
9と12は人が死なない様に周到にテロを実行しますが、実際にはテロは社会にとって迷惑な行為です。都庁の倒壊や、高高度核爆発んどという大規模なテロで無くとも、学校への爆破予告だけで多くの人々が右往左往します。
「テロ」が許されると思われていたのは全共闘の世代までで、現代におけるテロは決して正義などには成り得ません。
「テロは非対称の暴力」の典型的なものですが、力で敵わない相手に対して、「無差別に犠牲者が出るという恐怖」によって対抗する手段です。ですから、犠牲者の出ないテロには効果が無く、テロとは命の犠牲を前提にした暴力行為です。
9や12のテロごっこに対する5の対応は、人命をも厭わない「小さな戦争による報復」とも言えます。
例えば、アメリカに対して大規模なハッキングなどのテロが敢行された場合、もしアメリカがその報復として軍事攻撃を選んだとするならば、テロはやはり人命の損失の原因になったとも言えるのです。
『残響のテロル』が名作になるとするならば、やはりテロの暴力性から逃げずに作品を作るべきだったのかなと・・・。そうすれば「オシャレ・テロ」などと揶揄される事も無かった・・・。
■ 地味だけど中毒性の有るサントラ ■
菅野よう子のサントラは少々地味でしたが、やはり菅野作品は別格です。思わずポチットナしてしまいました。
全体を聞いた感想としては、多分ここら辺のイメージで作曲したのでは無いでしょうか?
VIDEO
1980年にクレプスキュール(Les Disques du Crepuscule)レーベルがカセットで発売した、コピュレーションアルバム
『ブリュッセルより愛をこめて(From Brussels With Love)』 (後にCD化)
透明感のあるピアノの音色や、温度感の低さが当時にニューウェーブシーンの中でも際立っていました。
さらに、こんな映画も脳裏にチラツキます。
鬼才デレク・ジャーマン監督の1987年の映画『THE LAST OF ENGLAND』。セリフの無い映像のコラージュの様な作品ですが、テロと死のイメージが画面に溢れています。黒覆面のテロリスト達は、IRC(アイルランド解放戦線)をイメージしているのでしょうが、現在は「イスラム国」の偽テロリストのアイコンになってしまいました。
[[youtube:iXKvC1-C-VQ]]
サントラは、サウンドコラージュとテープ編集によるループで捉え何処がありませんが、映像の雰囲気にとてもマッチしています。
『残響のテロル』のサウンドトラックと、上記2枚をシャッフルしてiTunseで聴くと、どれがどのアルバムか言い当てる事が難し位い、肌合いが似ています。
ちなみに、『THE LAST OF ENGLAND』のサントラを担当したのは「
サイモン・フィッシャー・ターナー」 というミュージシャンで、
「キング オブ ルクセンブルグ」 名義で、ベルギーのelレーベルから素晴らしいポップアルバムを何枚か発表しています。
[[youtube:wU1m-CBMGJo]]
目眩のする様な過剰なポップワールドで、XTCなどに通じる感じがします。サイモン・フィッシャー・タナー名義でデレク・ジャーマンのサントラを担当する諸作とは全然肌合いが違います。彼は子供時代に俳優をやっていた様で、キング・オフ・ルクセンブルグの活動は多分に芝居じみていて、及川光彦の昔の姿とダブります。elレーベル自体が、アーティスト達の架空の経歴(例えばフレンチのシェフを本業にしている)を売りにした、遊び心に溢れるレーベルでしたから、サイモン・ターナーの芝居気は、レーベルの雰囲気にマッチしていたのでしょう。
何れにしても菅野先生のこの作品における「テロ」のイメージは、ヨーロッパ系のインテリテロだったみたいで、これらの作品に繋がったのではと邪推しています。
マクロスのセルフカバーの様なOP曲も、良く聞くと最初はコーラスパートが主旋律に先行して、そして合唱となり、次はエコーになっています。非常に凝ったアレンジです。
サントラ全体的には循環するリズムやメロディーが特徴ではないでしょうか。掴みどころの無い音楽ですが、聞きこむとクセになります。