■ 作品との縁 ■
現代は毎日大量の本が出版され、
名前も知らないマンガが日々書店に並びます。
或いは、クラシック音楽から歌謡曲まで、
膨大な量の音楽CDが発売されます。
それらの中には優れた作品が数多くありますが、
私の限られたお金と、時間の中では
全てを読んだり、聞いたりする事はとうてい不可能です。
ですから、私は作品との出会いを「縁」に任せています。
日頃、絶対に「書評」を読んだり、
音楽の「レビュー」を読まないようにしています。
運悪く、何かの拍子で開いた雑誌で目に留まってしまった物を除き、
音楽雑誌や書評誌で評価を読んでしまった作品は、
私の中では「アウト」の分類になります。
何らかの「先入観」が付いた状態で作品に触れる事は不幸な事です。
CDの冒頭、どんな音が飛び出して来るのかドキドキする感じ・・・
マンガの1ページ目をめくる時の、眩暈のする様な高揚感が
私は何よりも好きです。
そして、それが予想に反するものであったとしても、
書店やCDショップの膨大な作品の中で、
私に買わせたいと思われるオーラを出していたのだから、
何か「特別なもの」があると信じて、
じっくりと作品に付き合うようにしています。
すると、今まで自分が触れた事も無かったジャンルでも
きっと面白い「何か」を見つける事が出来ます。
「作品」と「私」を繋ぐ「何か」を、私は「縁」と読んでいます。
■ 「ぼくらの」との不運な出会い ■
鬼頭莫宏の「ぼくらの」と私は不運な出会いをしています。
書店に平積された、「ぼくらの」を見た時、
私はこの作品を「買わなければ」と即座に思いました。
しかし、店員がそこに付けていた感想のカードが
私の決断を鈍らせました。
「子供達は自分の命を犠牲にして、
巨大ロボットに乗って
地球と大切な人の為に戦う」
多分、こんな書評だったと思います。
私はひねくれ者なので、「子供」と「動物」をダシにした作品が嫌いです。
まして「子供」が「命を掛ける」というのは、
設定として「あざとい」。
子供が死んで、読者に感動を強要する様な作品ならば
それは、私的には読むに値しません。
ですから、表紙が強烈な「買ってよ」オーラを放っていたにも関わらず、
私は、「NARUTO」の新刊を買ってしまいました。
アニメ版、「ぼくらの」を見た時、
私のこの選択は大きく間違っていた事に気付きます。
この作品は、近年稀に見る名作の一つだったからです。
■ 「ぼくらの」との幸運な出会い ■
先週、買い物のついでに近所の古本屋の店先を覗いたら、
「ぼくらの」の1~8巻(7巻を除く)が、
1冊50円で売られていました。
ブックオフではたまに見かけますが、
それは「売られているのが当たり前」の古本屋です。
ここには、作品と私の間に「縁」は存在しません。
ところが、1冊50円という破格の価格で、
店頭で紫外線にさらされている「ぼくらの」は、
私の救出を待っていたとしか思えません。
今を逃すと、急な夕立で水浸しになってしまうかも知れない・・・。
これは「縁」だ!!
やはり「ぼくらの」と私は「縁」で結ばれていたのです。
・・・すみません。前置きが長くなりました。
「作品の内容を知っていたら購入しない」という自分のルールを破った事に
自分で自分を納得させる必要があったので・・・・。
ここからはネタバレ全開!!
■ 巨大ロボットの高さは500m ■
夏休みの自然教室に集まった中学1年生の14人の男女は、
海辺の洞穴の中で不思議な人物と出会います。
彼は洞穴の中にパソコンを持ち込み、
ゲームソフトを製作しています。
洞穴の中で良いインスピレーションが得られる、と彼は語ります。
ゲームはほぼ完成しているので、
君たち試しにやってみないかと、彼ココペリは誘います。
好奇心旺盛な子供達は、金属板に手を置いて、
ゲームにエントリーします。
と、次の瞬間に子供達は浜辺で気を失っています。
誰もが先程の事は、夢だったのでは無いかと疑います。
ところが、子供達の目の前に、
突如、真っ黒な巨大ロボットが出現します。
その高さは何と500m。
■ 命を代償にして地球を守る ■
次の瞬間、子供達はロボットのコクピットの中に転送されています。
そこには、先程のココペリが椅子に座っています。
そして巨大ロボットの前に別の巨大ロボットが出現します。
ココペリは、先ず手本に自分が、あのロボットを倒して見せると言います。
ぶつかり合う2体の巨大ロボットの戦いは壮絶です。
沖合いで戦っていても、その被害は陸地にまで及びます。
力で勝る子供達のロボットは、敵のロボットを倒し、
内部から球体のコアを取り出して、それを破壊します。
それが、戦いの決着を付ける行為だと、ココペリは説明します。
戦いが終わるとココペリの姿は消えています。
子供達は狐にツママレタ様な面持ちで、宿舎に帰ります。
最初にパイロットに選ばれたのは、
県の選抜にも選ばれたサッカー少年です。
しかし、彼は中学に入ってサッカーを止めています。
かつて全国大会にも出場した彼の父親が、
現在はサッカーより野球好きである事が、
彼がサッカーに熱中する事を、躊躇させています。
少年は劣勢の戦いの中で
サッカーの要領でピンチを脱し勝利を得ます。
勝利の高揚感の中で、少年は再びサッカーを始める決意をします。
ところが、少年はその直後に死にます・・・。
コエムシと名乗る謎の生き物が現れ、
このロボットは、人の命をエネルギーに動いていると告げます。
パイロットは戦いが終わると必ず死ぬのだと。
そしてこのロボットが負けた時、
地球は消滅するのだと・・・。
子供達は自分の命を代償に、地球を守る戦いを強いられるのです。
■ 死と向き合う事で、生に目覚める子供達 ■
子供達はそれぞれ様々な境遇で暮らして来ました。
裕福な家庭の子。
親が居ない子。
母親が風俗で働いている子。
先生に騙されて子供を妊娠した子。
不良のパシリの子。
親友との友情に悩む子。
養子でありながら親を大好きな子。
親に構ってもらえない子。
14人の子供達は、それぞれ現代の縮図とも言える
様々な生活を送って来ました。
その子達が、核爆弾にもビクともしない強大な力を得、
その代償として命を賭して地球を守れと言われる・・・。
「お前はもうすぐ死ぬが、地球や人類は生き残る」
なんとも理不尽な要求に、子供達は為すすべもありません。
彼らは彼らなりに生と死について深く考え、
最後に残された時間を、有効に使おうとします。
巨大な力を復讐に使う者。
逃亡する者。
仲間の為に時間を使うもの。
そしてコエムシの告げる事実はさらに子供を苦しめます。
彼らの戦っている相手は、無数に存在する平行宇宙の地球なのだと。
無限に分岐する平行宇宙の枝葉の「剪定」こそが
この戦いの目的であるのだと。
そして負けた「地球」は消滅するのだと・・・。
■ 命や存在の絶対性すら否定されて、子供達が選択する事 ■
自分達が1回勝つ毎に、
自分達が100億人の別の地球の人命を奪っている事に
子供達は恐怖します。
戦いは、相手の地球を舞台に行われる事もあり、
そのあまりにも自分達の「地球」に似た光景は
子供達を困惑させます。
自分達が「生きる」事で、相手に「死」を与えている事。
そこには「地球を守る」という正義すら存在しません。
学校で苛められていた者は、
普段自分を襲う暴力を、相手の地球に行使する事に躊躇します。
そもそも、相手の地球が残る事と、自分達の地球が残る事に
如何ほどの違いがあるのか、彼には判断が出来ません。
そんな彼に、彼らの世話をする女性の軍人はこう言います。
自分の近しい者、大切な者を守って他人を傷つける事は
利己的ではあるけれど、それは間違った事ではないのだと。
命とは利己的な選択の中でしか実感出来ないのだと。
子供達は命を代償とした戦いの中で、
それぞれの悩みの答えを見つけて、
そして淡々と死んでゆきます。
■ 「子供の死」という「アザトイ」設定でしか描けないもの ■
私が「ぼくらの」を買えなかった最大の理由は、
「子供の死の代償による正義」はマンガのテーマとしては安直に思えたからです。
人の死はマンガの中と言えども悲しい出来事です。
ましてや「子供の死」は強い感情を喚起します。
しかし、それが14人分繰り返されるのですから、
凡庸な作家の作品では、その「アザトサ」が際立ってしまいます。
「ぼくらの」の初期のエピソードは、
やはり「子供の死」という設定に安易に依存する傾向が見られました。
「子供の死」にバランスする「子供の事情」は過剰になりがちでした。
担任の先生に騙されて妊娠し、
その復讐にロボットの力を借りる女の子の話は
前半のハイライトではありますが、
どうしても、「巨大な力を復讐に使う子供」という設定を描きたい為に
少々、ショッキングな設定をし過ぎた感があります。
作者もそれを意識してか、
彼女の戦いの後に、
彼女と彼女の家族のほんの日常を描いたエピソードを載せています。
過激な行動を取ったこの子も、普通の女の子であった事を印象付けます。
中盤以降、作品は血が通い始めます。
一人ひとりが、作者にとっても、読者にとっても
愛おしい存在に思えて来ます。
そして、そんな彼らの死を通してしか
描く事の出来ない境地に作品は突入して行きます。
■ 何度も問われる「命の等価性」 ■
作者は死に行く子供に苛烈な選択を突きつけてゆきます。
子供達は戦いを繰り返す度に、
戦っている相手も、自分達と同じ思いを抱いている事を確信します。
作者は繰り返し「命の等価性」を問いかけます。
戦闘の犠牲になった人々の命と、自分達が守ろうとした人の命は同じではないのか?
自分達が戦っている別の地球の人達の命と、自分達が守ろうとする命は同じでは無いのか?
子供達は、繰り返しこの壁に突き当たりながらも勝利して行きます。
「自分の大切な人を守りたい」という思いが、
子供達を勝利に導きます。
それは、「命の等価性」を否定する事でもあります。
命の重みが、「相対的」である事に気付いた時、
子供達は、初めて自分の生きる意味を知るのです。
一方、大人がパイロットを務める他の地球では、
度々、パイロットが逃亡します。
パイロットの逃亡は、その地球の消滅に繋がりますが、
彼らは、自分達が奪おうとする100億の命に耐えられないのです。
そして作者は、最後の戦闘で、もう一度、この問題を子供に突きつけます。
彼に化せられた課題は、あまりにも苛烈です。
無数の殺戮を繰り返しながら、彼は自分の選択の代償に向き合うしかないのです。
「生」と「死」を、圧倒的な「理不尽」の中に置く事で、
「ぼくらの」はこの使い古されたテーマの本質に
リアルに迫ろうとする意欲作です。
文化庁はメディア芸術祭の優秀賞をこの作品に与えています。
■ 「死の強要」を「美化」する日本 ■
「ぼくらの」はSFとしても出色の出来です。
しかし、多くの人はこの作品をSFとして意識しないでしょう。
これはあくまでも子供達とそれを取り巻く大人達の日常のストーリーです。
そして、このある種残酷な作品を優しく包み込んでいるのが、
「死」に対する一種の美意識です。
これは日本人独特の感性かも知れません。
キリスト教の犠牲は、信仰の強さを証明する行為で、利己的行為とも言えます。
イスラム教の「ジハード」も、信仰の証明という意味ではキリスト教と同根です。
ところが「日本人」の自己犠牲は、「自己憐憫」と「自己陶酔」の感覚の上に成立しています。
「大切な人を守る為に死に行く自分は、儚く、美しい」
「散り行くサクラの如く、見事な最後を遂げたい」
但し、実際に死に行く者達が、そう感じていたかは別問題です。
「自己犠牲」を強要する同調圧力に屈して、
止む無く死を選択せざるを得ない状況であっただけとも言えます。
日本において「犠牲による死」は、意外にも同調圧力によって強要される物で、
キリスト教やイスラム教の様に、自己実現の手段では無いのです。
後に残された人達が「美しい死」という概念を創って、
「死を美化」する事によって、「死の強要」を「自発的死」に昇華させるのでしょう。
「ぼくらの」は、「子供の死」によって「死」を極限まで「純化」する事で、
やはり、日本人の「死の美化」のプロセスに、強く働きかける作品であるとも得ます。
「ぼくらの」は日本人の死生観の上に成立する物語であると言えます。
■ 正座して読むべし ■
子供達が命を代償に地球を守る話ですから、
この作品は当然、正座して読むべきですが、
我が家では、娘も私もいつもながら、
寝転がって読んでしまいました・・・。
きっと、バチが当たります・・・。
■ マンガとアニメでは大きく異なる ■
「ぼくらの」はアニメ版も名作です。
しかし原作マンガとアニメでは、そのテーストが大きく異なります。
これはマンガとアニメの表現様式の違いを良く表しています。
マンガは絵と文字のメディアです。
ですからマンガ版は、哲学や倫理的問題を、
大量の文字を用いて問い詰めてゆきます。
少々、中学校一年生には難しい内容を、子供に語らせ、
そして大人顔負けの行動を彼らは取ります。
一方、アニメは映像のメディアです。
映像はマンガと異なり、一定のリズムを刻む時間の上に成立します。
ですから、セリフの比重が重すぎると、作品の魅力が薄まります。
映像は、ちょっとした仕草の積み重ねで、
言葉では表現できない、心の深層にメッセージを伝える力を持っています。
ですから、「ぼくらの」のアニメ版は、
原作マンガの内容を、いく分省略して、
その分、生身の子供達を描く事に力を注いでいます。
どちらが良いという話では無く、
メディアの違いによって、魅力的な2作品を私達が楽しめるという事です。
最後にアニメ版のOPのフルバージョンを紹介します。
誰かがアニメ本編のシーンを編集してくれています。
作品の世界に少しだけ触れてみて下さい。
「神曲」ってダンテじゃないですよ・・・昭和歌謡の究極進化形態「石川智晶」
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