カトリ企画『ある夫婦』&iaku『あたしら葉桜』の2本立。岸田戯曲の傑作『紙風船』から90年という企画なのに、取り上げるのは、敢えて『紙風船』ではなく、ほかの作品である。『紙風船』は今までたくさんの団体が取り上げてきた。だから、そうではなく、『紙風船』に象徴される岸田戯曲のエッセンスを凝縮したほかの作品でそれを表現する。しかも、それに2団体はそれぞれ別のアプローチでチャレンジした。その試みは興味深い。原作をそのまま見せるのではなく、換骨奪胎してその先にオリジナルの目指したものを、現代の時点から表現する。
そこに新しい岸田戯曲を見出す。その時、カトリ企画は、岸田の短編小説を取り上げて、原作に忠実に戯曲化する。時代も、現代へと改編せずにオリジナルを踏襲する。だが、あまり時代背景にこだわらない。ある種の普遍性を目指す。戦後間もなくの東京も、今も、そこに生きている人間の姿は変わらない。夫婦がいれば、彼らの抱える問題も、似たり寄ったりだ。でも、どこにでもある夫婦像を描くのではない。原作の設定をちゃんと生かそうとした。ミステリータッチで、ドキドキさせる。何もないのに、そのことが、余計に不穏な空気を醸し出させる。夫は自分のかつての不貞を妻に告白したい。だが、彼女はそれを拒否する。聞きたくないのではない。話すことで夫が楽になるのが許し難い。夫の秘密をめぐるお話は、過去のあやまちを清算したい、という勝手な想いでしかない。しかも、ばれることを恐れての。ばれる心配がないのなら、忘れたことにしたはずだ。だから、そういう夫の料簡が許し難いのだ。だが、彼女にも秘めた想いがあった。それが露見したなら、夫はお互い様、として安心する。だから、彼女は自分の想いは秘めたまま、夫の問題だけを追求したい。いやそうではない。そんなふうに打算的に考えるわけではない。だが、お互いはお互いに本音を隠したまま、お互いの関係を先に進めたい。ずるい、というと、そこまでだが、無意識に、そんなふうになっている、ようにも見える。かなり、微妙なのだ。わかりやすくない。それは本人にとっても、だ。別に意識してそうするわけではない。この作品の魅力はそんな曖昧な想いが錯綜するところにある。どうとでも、取れる。それが面白いし、そこに岸田戯曲のエッセンスを感じる。
Iakuは現代の大阪に置き換え、母娘の話として再構成する。原作はその骨格すら残されていない。「お見合い」という基本設定も残さない。ふたりの関係性のみ。母と娘の間にわだかまるものを、会話劇として見せる。とりとめのない会話という共通項にすらならないような細い糸を踏襲して岸田戯曲に挑戦する。娘の相手を男ではなく女性にしたことで、母親の納得いかない心情をわかりやすくした。だが、そこで生じるのは拒絶ではなく、なんとかして理解しようとする、という図式も用意する。結構めんどくさい両者の関係性を土台にして、この親子の心情に迫る。なかなか核心には迫らない、ということで、岸田戯曲の目指す核心に迫るのだ。本当にめんどくさいことを、とても丁寧にする。そのことのみに心血を注ぐ覚悟だ。横山さんも上田さんもそんなとんでもないことに果敢に挑戦し成功した。なんだか、何もない芝居のように見えて実に豊かな作品になっている。たった40分の至福。
今回の2作はともに、岸田戯曲という題材をもとにした大冒険である。しかも、それがこんな風にささやかな冒険になる。それでなくては、岸田戯曲ではないからだ。なんでもないことが、こんなにも、刺激的で新鮮だ。だから、90年たっても、ずっと岸田戯曲は新しい。
そこに新しい岸田戯曲を見出す。その時、カトリ企画は、岸田の短編小説を取り上げて、原作に忠実に戯曲化する。時代も、現代へと改編せずにオリジナルを踏襲する。だが、あまり時代背景にこだわらない。ある種の普遍性を目指す。戦後間もなくの東京も、今も、そこに生きている人間の姿は変わらない。夫婦がいれば、彼らの抱える問題も、似たり寄ったりだ。でも、どこにでもある夫婦像を描くのではない。原作の設定をちゃんと生かそうとした。ミステリータッチで、ドキドキさせる。何もないのに、そのことが、余計に不穏な空気を醸し出させる。夫は自分のかつての不貞を妻に告白したい。だが、彼女はそれを拒否する。聞きたくないのではない。話すことで夫が楽になるのが許し難い。夫の秘密をめぐるお話は、過去のあやまちを清算したい、という勝手な想いでしかない。しかも、ばれることを恐れての。ばれる心配がないのなら、忘れたことにしたはずだ。だから、そういう夫の料簡が許し難いのだ。だが、彼女にも秘めた想いがあった。それが露見したなら、夫はお互い様、として安心する。だから、彼女は自分の想いは秘めたまま、夫の問題だけを追求したい。いやそうではない。そんなふうに打算的に考えるわけではない。だが、お互いはお互いに本音を隠したまま、お互いの関係を先に進めたい。ずるい、というと、そこまでだが、無意識に、そんなふうになっている、ようにも見える。かなり、微妙なのだ。わかりやすくない。それは本人にとっても、だ。別に意識してそうするわけではない。この作品の魅力はそんな曖昧な想いが錯綜するところにある。どうとでも、取れる。それが面白いし、そこに岸田戯曲のエッセンスを感じる。
Iakuは現代の大阪に置き換え、母娘の話として再構成する。原作はその骨格すら残されていない。「お見合い」という基本設定も残さない。ふたりの関係性のみ。母と娘の間にわだかまるものを、会話劇として見せる。とりとめのない会話という共通項にすらならないような細い糸を踏襲して岸田戯曲に挑戦する。娘の相手を男ではなく女性にしたことで、母親の納得いかない心情をわかりやすくした。だが、そこで生じるのは拒絶ではなく、なんとかして理解しようとする、という図式も用意する。結構めんどくさい両者の関係性を土台にして、この親子の心情に迫る。なかなか核心には迫らない、ということで、岸田戯曲の目指す核心に迫るのだ。本当にめんどくさいことを、とても丁寧にする。そのことのみに心血を注ぐ覚悟だ。横山さんも上田さんもそんなとんでもないことに果敢に挑戦し成功した。なんだか、何もない芝居のように見えて実に豊かな作品になっている。たった40分の至福。
今回の2作はともに、岸田戯曲という題材をもとにした大冒険である。しかも、それがこんな風にささやかな冒険になる。それでなくては、岸田戯曲ではないからだ。なんでもないことが、こんなにも、刺激的で新鮮だ。だから、90年たっても、ずっと岸田戯曲は新しい。