泥の川を遡った町はずれにうなぎ女たちが現れる。彼女たちのうちのひとりが川の中から真っ黒ででこぼこの塊りを拾い上げる。それが本編の主人公、ポーだ。彼女たちはそれを自分たちの子供として大事に育てる。
いしいしんじのこの長編はポーと名付けられた少年が、500年に一度の大洪水に流されて繰り広げる冒険が描かれるのだが、そういうパッケージングとは裏腹に、まるでドキドキもハラハラもしない淡白な旅が描かれる。3部構成となっていて、寓話的で示唆的な内容は摑みどころがなく、読んでいて、とてもテンションが下がる。だが、つまらないか、と問われれば、なぜか「そうでもない」と答えてしまう。そんな小説だ。なんだか不思議な世界なのである。
第1部はメリーゴーランドと呼ばれる女たらしの運転士と、行動を共にする話。彼が付き合った女の部屋に忍び込み、物を盗む。ポーは彼以上に気配を消して盗みに入れる。ひまし油と呼ばれる障害を持つ彼の妹の世話をしながら、部屋からほとんど出ることもままならない彼女が語る、広い世界というものの話を聞く。彼女が本の中から得た知識を教わる。彼女はベッドの上で世界のあらゆることを知る。
第2部は洪水のあと、天気売りとともに流され、犬じじと呼ばれる猟師と、体の弱い彼の孫と出会う話。さらには、埋め屋の亭主と、その女房である鳩の調教をしている大女にこき使われる話。
第3部は老人たちだけが取り残された村に行く話。ここで話はそれまで以上に抽象的になる。ポーのこの旅は今を生きているここから、見知らぬ世界へと続く旅だ。それは単純に考えると人が生きていくことの象徴でもある。だが、この小説はそんな簡単にはいかない。ここで描かれる出来事は最初にも書いたがなんだか摑みどころがない。出来事が次々に起こるわけではない。450ページに及ぶ長編にしてはエピソードは少ないくらいだ。しかもとりとめがない。
「ポーや。ポー。ポーが生きている。ああうれしい」と歌ううなぎ女たちの声が耳に残る。ストレートなポーの成長物語なんかには当然なっていないし、彼の中にあるイノセントなものは、無知と残酷を無意識に見せていく。決してわかりやすい物語にはならない。生と死。正と悪。清と濁。それを併せ持ち、ただ為すがままに世界を傍観していくポー。読み終えた今も、自分がどこに辿り着いたのか、いささか心許ない。
いしいしんじのこの長編はポーと名付けられた少年が、500年に一度の大洪水に流されて繰り広げる冒険が描かれるのだが、そういうパッケージングとは裏腹に、まるでドキドキもハラハラもしない淡白な旅が描かれる。3部構成となっていて、寓話的で示唆的な内容は摑みどころがなく、読んでいて、とてもテンションが下がる。だが、つまらないか、と問われれば、なぜか「そうでもない」と答えてしまう。そんな小説だ。なんだか不思議な世界なのである。
第1部はメリーゴーランドと呼ばれる女たらしの運転士と、行動を共にする話。彼が付き合った女の部屋に忍び込み、物を盗む。ポーは彼以上に気配を消して盗みに入れる。ひまし油と呼ばれる障害を持つ彼の妹の世話をしながら、部屋からほとんど出ることもままならない彼女が語る、広い世界というものの話を聞く。彼女が本の中から得た知識を教わる。彼女はベッドの上で世界のあらゆることを知る。
第2部は洪水のあと、天気売りとともに流され、犬じじと呼ばれる猟師と、体の弱い彼の孫と出会う話。さらには、埋め屋の亭主と、その女房である鳩の調教をしている大女にこき使われる話。
第3部は老人たちだけが取り残された村に行く話。ここで話はそれまで以上に抽象的になる。ポーのこの旅は今を生きているここから、見知らぬ世界へと続く旅だ。それは単純に考えると人が生きていくことの象徴でもある。だが、この小説はそんな簡単にはいかない。ここで描かれる出来事は最初にも書いたがなんだか摑みどころがない。出来事が次々に起こるわけではない。450ページに及ぶ長編にしてはエピソードは少ないくらいだ。しかもとりとめがない。
「ポーや。ポー。ポーが生きている。ああうれしい」と歌ううなぎ女たちの声が耳に残る。ストレートなポーの成長物語なんかには当然なっていないし、彼の中にあるイノセントなものは、無知と残酷を無意識に見せていく。決してわかりやすい物語にはならない。生と死。正と悪。清と濁。それを併せ持ち、ただ為すがままに世界を傍観していくポー。読み終えた今も、自分がどこに辿り着いたのか、いささか心許ない。