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映画・演劇のレビュー

『愛のむきだし』

2009-10-01 20:53:30 | 映画
『愛のむきだし』だなんて、なんだか強烈なタイトルだ。だが、強烈なのは、タイトルだけではない。怒濤の3時間57分である。よくぞここまで無茶苦茶するわ、と感心するやら呆れるやら。3月の劇場公開時にどうしても見たかったのだが、不規則な公開方法だったからなかなか時間が合わずに、結局見送ってしまった。ようやくDVDでだが、見れてよかった。

 まぁ、実のところ予想したほどにはハチャメチャではなかったのだが、園子温らしい傑作で免疫が出来てない人には刺激が強すぎて、危険だろう。だが、『うつしみ』とか『紀子の食卓』をもう既に見ている人は実はこのくらいでは驚かない。

 ただ、冒頭の1時間は凄まじい。これでもか、これでもか、と驚きのエピソードのつるべ打ちだ。主人公の少年ユウの母親のいきなりの死からスタートし、その後、神父となった父(渡部篤郎)の教会にやってきたエキセントリックな女が、父を一方的に慕い、暴力的に彼らの生活を粉々に粉砕し、去っていく。廃人と化した父は、息子である彼(西島隆弘)に懺悔を強制し、彼は父に気に入られたい一心から、どんどん悪を為し、罪作りに励む。そして、盗撮の師匠の元で、修行をし、その道のプロとなる。スーパー盗撮魔高校生になるのだ。字幕で運命の出逢いまで365日と出る。ここからカウントダウンが始まる。そして、満を持してヨーコ(満島ひかり)が登場する。彼女こそが、彼の求めてきた理想の女性、マリアなのだ。こんなふうにあらすじを書いてきたが、読んでいても、これではなんだかよくわからないだろう。だが、これはそんな映画なのである。

 なんとここまで既に1時間なのだが、メーンタイトルは出ない。ここでようやく主人公の2人が出逢うのだが、この運命の瞬間に、ど、ど~んと画面いっぱいに『愛・の・む・き・だ・し』とタイトルが出る!その瞬間はちょっとした感動だ。この後も、ハイテンションはますますエスカレートする。いきなり終わる前半の幕切れも凄い。(劇場でもここでインターミッションが入ったのだろうか)

 後半もいきなり始まる。情け容赦ない。わざと収まりよく作らないのだ。ぶつ切りにして、そっけなく見せるのは、もったいぶった作り方をする大作映画へのアンチテーゼか。まぁ、何も考えてないのかも知れないが。

 後半戦はゼロ教会という新興宗教団体の話にシフトしていく。まぁ、最初から前振りはあったのだが。3人目の主人公である小池(安藤サクラ)が前面に出るここからのお話は、前半のパワーがなくなり、映画としては完全に減速する。つまらなくなるのだ。なぜ、こんな事になったのか、よくわからない。それまでの勢いだけでどんどん突っ走る映画が、徐々に停滞してきて、やがては立ち止まることになる。教会からヨーコを拉致してきて海辺のバンの中に監禁するシーンなんか、なぜ?としか思えない。どうして、こんな展開になるのかまるでわからない。しかも散々単調なシーンが続いた後、簡単に教会に連れ戻されて終わる。

 愛に飢えた少年の暴走が行き着く果てを描いたのだが、宗教がらみで纏めるには、このゼロ教会のシーンがチープ過ぎる。カトリックキリスト教との関係をもっと突き詰めなくては話が先に進まないのに、それがおざなりにされるのはなぜだろう。父親は、悪魔のような女に唆されて神父の仕事を愛のため2度も棄てるのだが、この父との確執も終盤はまるで忘れられてしまう。全体の構成がバラバラな印象を残したまま、映画が終わるのはなぜか。4時間もの長編なのに、ここまで行き当たりばったりにするのは納得がいかない。凄い映画だと言うことは重々承知の上でのことだが、なぜかこの作為的な構成には疑問が残る。園子温監督がこの破滅的な構造を敢えてとったことの謎は深まるばかりだ。

 愛の寓話だ、なんてかわいく括れるほどやわな映画ではない。一応エンタテインメントになってるが、もちろんそれだけではない。この驚愕のドラマは、愛に飢えた子どもたちの黙示録だ、なんていうのもなんだかなぁ、と思う。では、これは一体何だ? 変態についての映画なのだが、こんなにも純粋な変態はなかなかいまい。ユウのヨーコへの一途な想いはラストの安直なハッピーエンドにも収まらない。


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