こういう長編のダンス作品はとても難しい。ダンスは、芝居と違ってストーリーを持たない。だが長編を支えるためには幾分かのストーリーラインがなくては持たない。それは維新派を見ても同じように思う。せいぜい20分くらいの短篇としてなら成立するが、それ以上のものはどうしても単調になりがちだ。
それでも長編として表現する場合にはなんらかの仕掛けが必要だ。その一番単純な方法がストーリーなのである。流れいく意識の筋道として、それは確かな手助けになる。観客はそこを拠りどころとして見れる。生理的にも負担が少なく、心地よく見れるから楽だ。だが、そうすることで作家の主義主張が前面に出てくると、見やすくはなるのだが、ダンス本来の魅力が損なわれる場合もある。そのへんのバランスの取りかたは難しい。
鈴木優さんの構成、演出、振付によるこの作品は『BALANCE』というタイトルが示す<調和のとれた世界>が、この作品全体を通して提示される。マクロからミクロへと移行し、さらに再びマクロへと収斂されていく世界の中で、6人のダンサーが表現する宇宙と個人のドラマが表現されていく。
パンツの下の下着のラインを気にすることとか、小豆と漉し餡の違いを力説するというような瑣末な拘りを語る部分は、せりふを使って表現する。それは大きな意味での身体表現として捉えられる。短いダンスシーンの積み重ねと、何らかの意味を象徴するような描写(瓶に水を入れるシーンなど)を挟みながら、一人ひとりの人間と、それを大きく包み込む世界、そのバランスの向こうにある巨大な宇宙が表現された壮大なスケールのダンス・パフォーマンスとしてこれを理解してもよいだろう。
だが、それが大きなうねりをもって示されることはなく、個々のシーンが単発のものとして、いくつもの暗転を通して表現されていくのが惜しい。テーマのもとに収斂されていくイメージが、ひとつの流れを通して心地よく観客の胸に届いたなら、これは傑作になりえたはずだ。
ラスト近くの椅子を使ったパフォーマンスは、世界の中で、ぽつんと一人いることの孤独を適切に見せる秀逸な場面だった。ここで終わっていたならきれいにまとまった。だが、この後、劇団態変を思わせるようなスペクタクルとなり、簡単には小さくまとめないという意志を感じさせる描写が続く。だが、そこで反対に作品全体のバランスを崩しているようにも思えた。
それでも長編として表現する場合にはなんらかの仕掛けが必要だ。その一番単純な方法がストーリーなのである。流れいく意識の筋道として、それは確かな手助けになる。観客はそこを拠りどころとして見れる。生理的にも負担が少なく、心地よく見れるから楽だ。だが、そうすることで作家の主義主張が前面に出てくると、見やすくはなるのだが、ダンス本来の魅力が損なわれる場合もある。そのへんのバランスの取りかたは難しい。
鈴木優さんの構成、演出、振付によるこの作品は『BALANCE』というタイトルが示す<調和のとれた世界>が、この作品全体を通して提示される。マクロからミクロへと移行し、さらに再びマクロへと収斂されていく世界の中で、6人のダンサーが表現する宇宙と個人のドラマが表現されていく。
パンツの下の下着のラインを気にすることとか、小豆と漉し餡の違いを力説するというような瑣末な拘りを語る部分は、せりふを使って表現する。それは大きな意味での身体表現として捉えられる。短いダンスシーンの積み重ねと、何らかの意味を象徴するような描写(瓶に水を入れるシーンなど)を挟みながら、一人ひとりの人間と、それを大きく包み込む世界、そのバランスの向こうにある巨大な宇宙が表現された壮大なスケールのダンス・パフォーマンスとしてこれを理解してもよいだろう。
だが、それが大きなうねりをもって示されることはなく、個々のシーンが単発のものとして、いくつもの暗転を通して表現されていくのが惜しい。テーマのもとに収斂されていくイメージが、ひとつの流れを通して心地よく観客の胸に届いたなら、これは傑作になりえたはずだ。
ラスト近くの椅子を使ったパフォーマンスは、世界の中で、ぽつんと一人いることの孤独を適切に見せる秀逸な場面だった。ここで終わっていたならきれいにまとまった。だが、この後、劇団態変を思わせるようなスペクタクルとなり、簡単には小さくまとめないという意志を感じさせる描写が続く。だが、そこで反対に作品全体のバランスを崩しているようにも思えた。