人殺しの女の話なのだが、この気味の悪い話をとことん突き詰めていくと、どこに行き着くのか、そこに興味を持って見たのだが、なんだか納得がいかない。なぜ、こうなったのかを解明せよ、とは言わないし、そんなことには何の意味もない。ただ、幼い頃からそうだった。死、というものに魅せられていた。自分を傷つけるものへの恐怖が、傷つける側に回らせる。人には興味がない。他人と接することを好まない。上手くつきあえない、とかいうわけではない。つきあう気がないのだ。彼女には感情というものがない。最初の殺人もそうだ。
中学生の時の、2度目の殺人の残酷さには目を覆う。ドンと反対に力を入れて鉄板を叩きつける瞬間の恐怖。溝に手を入れていた少年の頭と体に鉄の板がぶつかり落ちる。見ていて、とても痛い。ああいう生理的な嫌悪感がこの映画の底辺にはある。(それは、執拗に繰り返し描かれるリストカットのシーンも同じだ)
この時巻き添えにした大学生が将来彼女を支える夫になる。その運命の再会がお話のキーポイントなのだが、いろんなことが、みんなあまりに都合良すぎて、嘘くさい。これは現実ではなく、ただのお話にしか見えない。作り手も心得ている。残酷なメルヘンとして作ろうとしているからリアリティは考慮していない。雰囲気だけで引っ張っていくのだが、40数年に及ぶ長い時間を描くから、そこには無理が生じる。全体のお話自体も、ご都合主義で、ありえない。でも、これは寓話なのだと理解して、そこから何らかの寓意を引き出せたならいいのだが、それもままならない。
このお話を通して何がしたかったのか、それすら見えてこないから、困惑するしかない。なぜ、こんなモンスターが生まれたのか。その解明でもない。彼女の不幸を描くわけでもない。幸せだった時間を守るわけでもない。しかも感情が見えないことが大事だったのに、最後は、息子を守るために殺す、なんて話になるのは、どうだか。
息子が自分の中にもモンスターの血が流れていることを自覚し、恋人を奪った男を殺そうとするのだが、母親はそれを食い止め、彼のために先に殺してしまうという終盤の展開にはまるで納得がいかない。ヤクザの事務所にたった1人で行き、皆殺しにしてしまう、ってどうよ? それはないわぁ、と思ってしまう。
1970年代くらいからスタートして現在に至る話なので、舞台背景となる美術が大変だっただろうけど、あまりそこには拘らず、さらりと流しているのは悪くはない。厳密な時代背景ではなく、なんとなく昔の雰囲気さえあればいいからだ。ただ、やはり全体の詰めの甘さが映画をつまらなくしている。熊澤尚人監督は前作『心が叫びたがってるんだ。』でも、あんなに頑張ったのに、細部の詰めが甘いから、緩い映画にしかならない、という失敗をした直後なのに、今回も、こんなに丁寧に作ったはずなのに、どこか詰めの甘さが覗く。その結果なんだか、納得がいかない作品に仕上がる。
映画全体が提示した雰囲気は素晴らしいし、主人公を演じた吉高由里子は、とてもいい。成長した息子を演じた松坂桃李や、夫を演じた松山ケンイチもこの映画が必要とする雰囲気を見事に体現している。それだけのことをしたにも関わらず、いろんな部分に於ける詰めの甘さが映画のリアルを損なうのはなんとももったいない話だ。気味の悪い話にどんどん引き込んでいき、どこまでも嫌な気分にさせることが出来たならよかったのだ。心地よいくらいに不快。デビット・リンチのような映画になったならよかったのに。