藤原新也がこんなにもやわなセンチメンタル・ジャーニーを書く、そんな時代が来るだなんて夢にも思いもしなかった。今、なぜ彼がこんな形で、自分の思い出を語るのだろうか。よくわからない。
日本という国への諦めと、自らの老いがこういう後ろ向きな紀行文に向かわせたのか。いくらなんでもこれはあんまりだ。彼らしくない。いつも冷静沈着で、世界をしっかり見つめて、自分の視点に拘り、攻撃的だが、筋の通った考えを提示してきた彼が書くには、あまりに年寄りくさい旅の記録に見える。日本浄土というタイトルと内容との齟齬も気になる。かっての日本に対しての郷愁だなんてものは本物の老人にでも任していけばいい。
この国の今に対する藤原さんのひとつの考えが提示されるのでもない。雑多な印象の紀行文が、羅列されてあるだけだ。ただ興味の趣くまま、心の命ずるまま、その場所へと足を向ける。そして、そこでなんだかがっかりする。あとがきで彼は「だが歩き続けなければならない。歩くことだけが希望であり抵抗なのだ」と言う。ここまで読んで、このあとがきに書かれてあること確かに解る。だが、本文のいくつものエピソードから感じた違和感は拭い去れない。
島原、天草、門司、柳井、祝島、尾道、能登、金沢、神島、房総。この本の中で描かれる旅先はいずれも興味深い。観光なんかではない。それぞれの場所への彼なりの想いを秘めての旅だ。目的はある。だが、それは何かを達成するための旅ではない。ではなんのための旅なのか。
最初に、この本に失望したというようなニュアンスの書き方を敢えてした。この本の中に藤原さんが見えないもどかしさがそんな挑発的な書き方をさせたのだ。僕はこの本を否定したいのではない。この30年近くの間、いつも藤原さんの本からは、たくさんの刺激を受けてきた。そんないつもの藤原さんの著作とは趣を異にしたこの本への戸惑いをこんなふうに書いたのだが、実はなんだかそれも違うなぁ、と思っている。この苛立ちのようなものはなんなのだろうか。上手く言葉には出来ない。
ただ、ラストに配された2つのエピソード。房総,「サクラの歌を聴けば」と「五月の少年」。ここを読んで、藤原さんがこの本の中で求めたものは、こんな希望だったのかもしれないと思った。死んでしまう少年が大事に育てたカラーの花。そこに託したもの。それは希望だ。確かなメッセージではなく、かすかな鼓動。それに耳を傾ける。「私自身の存在がどこかに消え入るようなそんな無名の旅」それが彼の望んだことだ。今までのたくさんの旅の中で一番ささやかな旅かもしれない、と語る。敢えてそんな旅をしようとしたのだ。これは彼にとって、今の自分に一番忠実な旅だったのかもしれない。僕は僕の尺度で決め付けてこの本を読んでいただけなのだ。藤原さんではない、だなんてよく言えたものだ。
僕は、歩くことが旅の本質だと思う。旅に行くとその町を隅から隅まで(とは、なかなかいかないが)自分の足で確認しなくては気がすまない。時間の許す限り歩く。そして自分の目と足で確める。有名な場所よりも、気が付けば誰も行かないような場所へと足が向く。そこで見たもの、接した風景を信じる。なんだか、ここで描かれた旅は僕が理想としたものに近い。だから、なんだか反対に反発を感じたのかもしれない。藤原さんの旅が僕らの旅と同じようなささやかなものであることに、なぜ反発するのか、よくわからないのだが。
日本という国への諦めと、自らの老いがこういう後ろ向きな紀行文に向かわせたのか。いくらなんでもこれはあんまりだ。彼らしくない。いつも冷静沈着で、世界をしっかり見つめて、自分の視点に拘り、攻撃的だが、筋の通った考えを提示してきた彼が書くには、あまりに年寄りくさい旅の記録に見える。日本浄土というタイトルと内容との齟齬も気になる。かっての日本に対しての郷愁だなんてものは本物の老人にでも任していけばいい。
この国の今に対する藤原さんのひとつの考えが提示されるのでもない。雑多な印象の紀行文が、羅列されてあるだけだ。ただ興味の趣くまま、心の命ずるまま、その場所へと足を向ける。そして、そこでなんだかがっかりする。あとがきで彼は「だが歩き続けなければならない。歩くことだけが希望であり抵抗なのだ」と言う。ここまで読んで、このあとがきに書かれてあること確かに解る。だが、本文のいくつものエピソードから感じた違和感は拭い去れない。
島原、天草、門司、柳井、祝島、尾道、能登、金沢、神島、房総。この本の中で描かれる旅先はいずれも興味深い。観光なんかではない。それぞれの場所への彼なりの想いを秘めての旅だ。目的はある。だが、それは何かを達成するための旅ではない。ではなんのための旅なのか。
最初に、この本に失望したというようなニュアンスの書き方を敢えてした。この本の中に藤原さんが見えないもどかしさがそんな挑発的な書き方をさせたのだ。僕はこの本を否定したいのではない。この30年近くの間、いつも藤原さんの本からは、たくさんの刺激を受けてきた。そんないつもの藤原さんの著作とは趣を異にしたこの本への戸惑いをこんなふうに書いたのだが、実はなんだかそれも違うなぁ、と思っている。この苛立ちのようなものはなんなのだろうか。上手く言葉には出来ない。
ただ、ラストに配された2つのエピソード。房総,「サクラの歌を聴けば」と「五月の少年」。ここを読んで、藤原さんがこの本の中で求めたものは、こんな希望だったのかもしれないと思った。死んでしまう少年が大事に育てたカラーの花。そこに託したもの。それは希望だ。確かなメッセージではなく、かすかな鼓動。それに耳を傾ける。「私自身の存在がどこかに消え入るようなそんな無名の旅」それが彼の望んだことだ。今までのたくさんの旅の中で一番ささやかな旅かもしれない、と語る。敢えてそんな旅をしようとしたのだ。これは彼にとって、今の自分に一番忠実な旅だったのかもしれない。僕は僕の尺度で決め付けてこの本を読んでいただけなのだ。藤原さんではない、だなんてよく言えたものだ。
僕は、歩くことが旅の本質だと思う。旅に行くとその町を隅から隅まで(とは、なかなかいかないが)自分の足で確認しなくては気がすまない。時間の許す限り歩く。そして自分の目と足で確める。有名な場所よりも、気が付けば誰も行かないような場所へと足が向く。そこで見たもの、接した風景を信じる。なんだか、ここで描かれた旅は僕が理想としたものに近い。だから、なんだか反対に反発を感じたのかもしれない。藤原さんの旅が僕らの旅と同じようなささやかなものであることに、なぜ反発するのか、よくわからないのだが。