まるでイオセリアーニの映画を見てるような気分。(同じジョージア映画だから似てるのか?)初めて彼の『月曜日に乾杯』を見た時、なんだかすべてから解放されまたような感じがした。自由ってこんな感じかと思ったけど、あれ以上にこの映画はノンシャランとしている。なんでもあり、というか、どうでもあり、というか。何も考えていないのです、ってこんな感じか。かわいい女の子をいつまでも撮っている。そこには何の意味もない。かわいいなぁ、終わり。ストーリーの展開なんてどうでもいい。だいたいこんなアホなストーリーの映画はないよな、と笑うしかない。呪いとか、童話の世界ですか? 偶然1日に2度くらい出逢ったから、「明日待ち合わせして会いましょう、」って、普通言えません。ない、ない。しかも、翌朝、呪いだし。
まぁ映画だし、ラブストーリーだからいいかぁ、と思いつつ見てたら呪いで魔法をかけられふたりは姿を変えられてしまいましたとさ。男は野獣とかになりましたか? なら、女は美女? いや、いや普通の顔でした。女は地味だから、変わったと言われて初めて気づくくらい。まぁ男は髪型(はげ頭になってた! というか、丸刈りにしただけか)が変わったから気づくけど。
さぁ、ふたりの運命は如何に、なんて感じのはずなのに、ふたりのことより、周りのことが気になるみたいで、橋のほとりのオープンカフェの周囲にいる人たちのスケッチが綴られる。しかも話はない。カメラは自由にまるでお話とは関係ない人たちのどうでもいい光景を追いかける。追いかけていたはずが、すぐに興味がなくなって、他の人に移る。いいかげんというか自由自在。姿が変わった主人公ふたりも時々描かれていく。(主人公だもの当たり前なんですがね)ふたりは、約束した相手がやってくるのを橋のたもとで待つ。女は橋のほとりのカフェで働く。男はへんなぶら下がりの仕事をする。(鉄棒に2分間ぶら下がれたならチャレンジ料金の50倍の賞金がもらえる、とかいうやつ)そんなこんなのお話を見ていると、なんと途中で、サッカーボール⚽️が、川に落ちて、そこに第一部終わりの文字が。今の日本では、ここで休憩は入らない(『RRR』もそうだった)で、映画はそのまま第二部に突入。なんとサッカーボールは忘れられて他の話になってしまう。
いろんな人たちが登場して、何かする。群像劇のスタイルにも見えてくるけど、そうじゃない。ほとんどはたまたまそこに居ただけ。映画のスタッフが出てきて、なんか作っている。(もちろん映画だけど)またまた、たまたま、ふたりはカップルとして撮影に駆り出されるが、カメラで撮られたふたりの姿は呪いにかけられる前の元の姿で、ふたりはお互いを改めて知ることに。めでたしめでたし?
犬たちとか、子どもたちに、もちろん大人たちも。サッカーのワールドカップが始まり熱狂。アルゼンチンが優勝して子どもはメッシの名前と背番号10を背中にペイントして歩く。
まるで訳がわからん映画なのだ。その後のふたりがどうなったかはわからないし興味ないし、どうでもいいみたいだ。観客が、ではなく、この映画自身が、である。いくらなんでもそれはないとは思うけど。そんなふうにして、2時間30分の映画は終わります。
呆れてものが言えないけど、美しい風景に魅了されて、たぶん偶然通りがかっただけのかわいい女の子たちにほのぼのさせられて、のんきな人たちに癒される。だからいい。いい映画だったことにする。いや、確かにいい映画だった。監督はこれがたぶん長編デビューとなる(調べると2作目だったけど)新鋭アレクサンドレ・コベリゼ。