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映画・演劇のレビュー

ゲキバコ!『あの夏のカノンプロロン』

2009-11-18 20:42:03 | 演劇
 30年の歳月を経て振り返るあの夏の日々。少年時代の夢。とても感傷的で自己陶酔的なお芝居だ。それを真正直に描いてくれる。この直球勝負は見ていて気恥ずかしい。だけど、吉野さんは照れることなく、この単純な物語を思い切って見せる。それはそれで潔い。

 実は見ていて何度も、話をもう少し整理したらいいのにと思った。改訂版として上演しているはずなのに、5年前の初演の時と変わらない恥ずかしさがここにはある。それは、彼が「成長もなく、拙い」というわけではない。彼の中にある変わらない想いがストレートに残ったままここにあるからだ。技術的な問題ではない。(まぁ、いささか回りくどい話であることは否めないが)なぜこうなったのかは明白だ。

 これは、作者である吉野圭一さんの作り上げた想像の中の村に住む少年少女と彼らを囲む大人たちのメルヘンの世界のお話だ。吉野さんの中にある原風景がこの作品なのだろう。この作品の根底にある優しさが作家である彼を突き動かした。だから、今これを再演するに当たって、この作品世界を作り替えることは出来なかったのだろう。

 主人公カミルを演じる堺のぞみさんが素敵だ。彼女は少年の変わることのないイメージをきちんと表現し、この物語の中に生きる。象徴としてのピュアな存在を見せてくれる。それはドラマの中の象徴的な存在であることを超越する。観念の世界でしかない物語に命を吹き込んだ。だが、それはよくある生き生きした少年ではない。彼の陰がこの世界を覆う。すべては現実ではない。だが、彼だけは現実だ。メルヘンのなかのリアルを堺さんが体現する。

 正直言うとこの芝居は、子どもたちが夏の終わりに星を見るために夜の森の中に入っていく、そのドキドキする思いが描けたならそれだけでこれは成功なのだ。なのに、あまりに多くのものを詰め込みすぎて全体がモタモタしてしまった。そのくせ一番大事な山の怪物カノンプロロンって何なのか、ということは描けていない。そこに込めたものを明確にすることで作家としての主張もクリアになるのではないか。これでは吉野さんの立ち位置が見えない。だいたい時間泥棒なんていう単純なアイデアはこの際必要ないのではないか。

 生まれてくることなく死んでいった妹(あるいは弟)の幻と過ごした夏の日の記憶を、愛しいものとして丁寧に描こうとしたこの作品が、吉野さんとって大切なものであることは充分に伝わる。だからこそ、これが個人的なものではなく、普遍的なものとなるような客観性と、ドラマとしての仕掛けが欲しい。

 カロと主人公が呼ぶ幻とともに過ごす時間のなかで、彼は確かに子どもたちの中で存在した。なのに、誰もカロのことを記憶にとどめていない。少年の空想と現実のはざまに横たわる「何か」それをきちんと描いた時、これは傑作になり得たかもしれない。

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