『バベル』のイニャリトウ監督が放つ生と死の物語だ。黒沢明の『生きる』を視野に入れた作品。ガンであと2ヶ月の命と宣告された男が生きているうちに何が出来るかを考える。そして実践する。その姿を描く。2人の幼い子供たちをどうするかが、一番大きな問題だ。別れた妻と寄りを戻そうとするのも、そのためだ。この映画は子供たちと彼の心の交流を描く感動のヒューマンドラマに出来る素材だ。よくあるパターンの親子愛で泣かせることは十分可能だった。だが、イニャリトウである。そんな映画にはしない。
この過酷な現実から目を背けてはならない。それって、彼がガンになったこと、ではない。彼の住む世界の話である。これはバルセロナを舞台にした映画だが、美しい風景なんか、ほとんど出てこない。社会の底辺でもがき苦しむ人たちの姿を追いかける。それが、彼が生きる世界だ。今、世界中でこんな貧困が確かにある。この映画が描く場所は世界中どこにでもある。貧富の差は仕方ないこと、と割り切ったりは出来ない。日本は平和だから、とか、そんなこと言えるわけもない。これは日本でもどこの国でも今ある現実だからだ。わかっていても目をそらして、見て見ぬふりをしている。不法就労の中国人。強制送還されるセネガル人のドラッグの売人。過酷で不当な労働。でも、自国にいるよりはましだ。ここでしっかり働いて金を儲けて帰る。あるいはここで生きる。でも、普通の仕事はない。強制労働のような理不尽な仕事。ややばいとわかっていながらも、やらざる得ない。ピンハネされて、少ない給金はさらに減る。そんなピンハネをするのがこの映画の主人公である。
父と子の話を核にはしている。ガンで死ぬ父親が、生きている間に子供達に何が出来るか、を描く。そのアウトラインには偽りはない。だが。そこから想像されるような甘い描写は一切ない。映画は情け容赦ない現実をどんどん突きつけてくる。お涙頂戴の難病映画でも想像した日には、痛い目に遭う。本筋なんか置いてけぼりにでもしようという勢いで、彼を取り囲む現実を突きつけてくる。そこで彼は生きているのだ。
刻々と変わり往く世界のなかで、自分の現実と向き合いながらも、同時に、この世界とどう向き合うべきなのか、それが描かれる。だから、お話は個人のこととして閉じたりはしない。とても攻撃的な映画なのである。
この過酷な現実から目を背けてはならない。それって、彼がガンになったこと、ではない。彼の住む世界の話である。これはバルセロナを舞台にした映画だが、美しい風景なんか、ほとんど出てこない。社会の底辺でもがき苦しむ人たちの姿を追いかける。それが、彼が生きる世界だ。今、世界中でこんな貧困が確かにある。この映画が描く場所は世界中どこにでもある。貧富の差は仕方ないこと、と割り切ったりは出来ない。日本は平和だから、とか、そんなこと言えるわけもない。これは日本でもどこの国でも今ある現実だからだ。わかっていても目をそらして、見て見ぬふりをしている。不法就労の中国人。強制送還されるセネガル人のドラッグの売人。過酷で不当な労働。でも、自国にいるよりはましだ。ここでしっかり働いて金を儲けて帰る。あるいはここで生きる。でも、普通の仕事はない。強制労働のような理不尽な仕事。ややばいとわかっていながらも、やらざる得ない。ピンハネされて、少ない給金はさらに減る。そんなピンハネをするのがこの映画の主人公である。
父と子の話を核にはしている。ガンで死ぬ父親が、生きている間に子供達に何が出来るか、を描く。そのアウトラインには偽りはない。だが。そこから想像されるような甘い描写は一切ない。映画は情け容赦ない現実をどんどん突きつけてくる。お涙頂戴の難病映画でも想像した日には、痛い目に遭う。本筋なんか置いてけぼりにでもしようという勢いで、彼を取り囲む現実を突きつけてくる。そこで彼は生きているのだ。
刻々と変わり往く世界のなかで、自分の現実と向き合いながらも、同時に、この世界とどう向き合うべきなのか、それが描かれる。だから、お話は個人のこととして閉じたりはしない。とても攻撃的な映画なのである。
地下のタコ部屋に横たわる不法就労の中国人たちの遺体は、もちろんそれだけで強い衝撃を与える場面ですが、観客は、がんで死が運命づけられた主人公の男の目を通して、中国人たちの死を見せつけられる仕掛けになっています。死を通して死を見せることにより、私たちの「生」を問う作品だと思います。
(HIROSEさん、お久しぶりです。KENTAです。相変わらず、たくさん映画とお芝居を見られているようで何よりです)