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映画・演劇のレビュー

小手鞠るい『女性失格』

2022-01-07 12:09:23 | その他

パロディではなく本気モードだけど、これではパロディの域を出ないのが残念だ。だいたい『人間」ではなく「女性」にすると世界は狭くなる。そんなことわかったうえで敢えて『女性失格』とした以上、女性でなくてはならないものがもっと明確でなくてはならない。これでは『もうひとつの人間失格』でしかないし、主人公は特別な存在でしかない。女性という普遍性を獲得しない。太宰治の『人間失格』は主人公が男であるのに、『男性失格』ではなかった。葉蔵は人間として失格なのだ。でも、この小説の葉湖は、人間失格というレベルには至らない。だからといって女性失格なのかと言われたら、そういうわけでもなぁ、と思う。だから、この小説が太宰の向こうを張ってこの大胆なタイトルを持ってくる必要を感じない。これではこのスタイルを踏襲したというパロディ感しか残らないのだ。

道化を演じるうちに自分がいなくなるという意味では、この小説の直後に読んだ『笑うマトリョーシカ』のほうがずっと『人間失格』に似ている。まぁ、あれは別にそういうものを目指したわけではないのだけど。では、この小説が目指したものは何なのか。それは明らかに太宰への挑戦である。国民文学とすらなった作品に向こうを張って、このスタイルで何がしたかったのか。小手鞠るいの目指したものは何なのか。

残念だが、読み終えてもそれはよくわからない。この小説自体は読みやすいし、確かに面白くは読めた。彼女の語る人生は興味深い。だけど、彼女は自分だ、とは思えない。太宰の『人間失格』の魅力はそこに尽きるだろう。誰もがあの愚かな男に感情移入して葉蔵は自分の中に確かにいると共感する。あんなくだらない男に自分を重ねてしまうところに凄さがある。しかも、男だけではなく女性でもそう思うのだ。あんな酷い男なのに、あの男に魅了される。

この小説の主人公のお話は面白く読めるけど、ただの他人事だ。こんな人がいたのか、で終わり。だから、男たちを手玉に取る魔性の女であろうとも、それが怖いと思っても、それだけ。それに彼女はそんな女でもないし。人間不信とか、孤独とか、そんなのは誰もが感じることで、ことさら彼女だけの問題ではない。そこにも共感しない。それは主人公が女だから、というわけでもなかろう。いろんな意味で中途半端な作品だ。こんな大胆な挑戦をした作品なのに、残念でならない。


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