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こんな地味な映画がミニシアター系ではなくロードショー公開されるなんてうれしい。だけど、やはり残念ながら集客は難しいようだ。公開3日目の日曜日なのに朝一番とはいえ6人しか客はいない。ここではこの回を見逃すと夜まで上映はないのに、である。まるで期待されてないのだろうけど公開1週目でこの扱いは惨い。もちろん映画は傑作だ。
登場人物はほぼ4人のみ。なのに、その主人公である彼らが登場するまでの描写にまで、なぜだかドキドキさせられる。映画はこの4人を迎える教会のスタッフが準備する時間をまず丁寧に見せてくれる。なんでもないシーンなのだが、そこには張り詰めた緊張がある。これからやってくるお客をピリピリした状態で迎える。仲介に入った弁護士がまずやってくる。さらに緊張が高まる。やがて一組目の夫婦がやってくる。妻は落ち着かない。「ここに入る心の準備がまだできてないからもう少し先まで行って、」と夫に言う。教会の近くの牧草地に車をしばらく止める。(この場所の風景が映画の途中で何度か挿入される。4人が対峙した後、そのシーン以外は部屋の外のシーンは描かれない。しかもその風景を見せるところからスクリーンサイズはシネスコになる。そのことについてはあとで書くけど)
二組の夫婦が狭い部屋でテーブルをはさんで向き合う。加害者の夫婦と被害者の夫婦だ。大切な息子を殺された。その事件の全容は終盤まで明らかにはされない。彼ら2組の関係性の詳細は詳らかにならないままでお話は進展する。ほぼ実時間のやりとりがそのまま描かれる。リアルタイムのできごとを描く会話劇だ。
彼らはここで事件から6年ぶりに会い、話し合う。そんな時間を用意してもらうことにした。とある教会の一室。話が弾むわけはない。気まずい、ぎこちない訥々とした会話が描かれる。終盤、スクリーンがビスタサイズからシネマスコープへと広がるところからお話は一気にうねりを見せる。だけど、ここはシネコンなのでビスタからシネスコへの移行は広がるのではなく、上下が圧縮されるだけで反対に狭くなる。作り手の意図とは逆行するのだ。
シネスコサイズになったところから事件の全容が明らかになる。だが、そこもフラッシュバックの回想シーンとして描かれるのではなく、4人がしゃべりだすことで伝えられる。あのとき何があったか、時間は1時25分だった。教室での爆弾の破裂。その6分後の銃の乱射。その空白の6分の中で犯人である16歳の少年は何を思いその後の行為に至ったのか。10人の命が奪われたことが明らかになる。そして、死者はもうひとり。でも、彼はカウントされない。11人目は自殺した犯人だった少年だから。たぶん、(確実に)そうだ。 映画になかでは明確に語られないけど。
事件の被害者になった少年の両親(彼らの息子以外にも9人が犠牲になってるということもこの終盤までわからない)と犯人の両親の対話。それがこの映画のほぼすべてだ。ラストは和解というには少し苦しいけど、頑なに相手側を拒絶していた被害者夫婦が、加害者夫婦もまた被害者なのかもしれないと歩み寄れるまでのお話。でも、これを和解と呼ぶのはやはりはばかられる。
それにしても大胆な映画だ。脚本監督はフラン・クランツ。これが初監督作品らしい。大胆なだけではなく厳しい映画だ。ここには妥協は一切なく、加害者被害者が歩み寄ることなんかできるわけもない。そして事件の当事者である少年たちはこの映画には一切登場しない。(彼らはもう死んでいる)それにここに登場する2組の両親たちはこの事件を自分の目で見たわけでもない。それは警察から、関係した人たちから、聞いたことだ。当事者なのに、事件現場にいるはずもない。そんな4人が事件を想像して語る終盤のシーンが凄い。自分の知らないところで自分の人生すら終わらせるような出来事が起きたこと、それを想像して語るのだ。
痛ましい事件がなぜ起きたのか。親の育て方が悪かった、なんてことをマスコミやSNSとかが憶測で散々あることないこと書き立てたはずだ。事件当時どれだけ彼らが傷ついたかは想像できる。そして今も傷ついたままだ。少年がこんなモンスターになったのはなぜか。犠牲になった少年少女と彼との違いはどこにあるか。もしかしたら紙一重だったかもしれない。親は子供から目を逸らしていたのか。確かにそんな一面もあったのかもしれない。加害者夫婦は責任は親である自分たちにもあると認めている。でも、責められるのは彼らだけではないはずだ。
安易な答えなんかどこにもない。1時間51分の映画を見終えた後、ずっしりと重いものが残る。ここに描かれたことが僕たちの宿題にもなる。これは他人ごとなんかではない。