22年ぶりに寅さんが帰ってきた。こんな映画が作られるなんてなんだか夢にようだ。でも、正直言うと少し見るのが怖かった。渥美清が亡くなったことで、寅さんは終わったのだ。その事実は消えることはない。もちろん、みんなの心の中には、今もずっと寅さんは生き続ける。そんなことわかりきった話だが。
だからこそ、こういう形でもう一度イベントとしてではなく、第50作目の新作として、今回限りの作品を山田洋次が作る決心をした。その事実を大切にしたい。50周年の記念作品ということだが、これはただのお祭り企画ではない。
あの懐かしい世界が2019年の今もずっと存在していたなら、それはどんな世界だろうか。中年男になった満男(もちろん吉岡秀隆だ!)が高校生の娘と二人暮らしをしている。妻は6年前に死んでいる。おいちゃんもおばちゃんももういない。老齢に達した両親はとらやで暮らしている。あれから20年以上の歳月が過ぎたのだ。
寅さんが死んだ、とは一切言わない。あたりまえのことだ。でも、今はもう寅さんはいない。それも当たり前のことだ。この映画は大切な人を失った後の時間を描く。みんなそれぞれの生き方をしている。彼が死んでも人生は続く。だけど、もしここに寅さんがいたなら、どれだけ幸せか。もちろん、彼がふらりと帰ってきたら、また、トラブルの連続でみんなは大変な想いをすることだろう。だけど、それが懐かしい。あの日々のひとつひとつの思い出にかけらを拾い集めて、在りし日の寅さんの姿がよみがえる。映画の中に挿入される過去の寅さんがいくつもの姿がただの思い出ではなく、鮮やかにそこに存在する。記憶の断片ではなく、確かにそこにはあの寅さんがいる。
映画を見ながらずっと泣いていた。それは悲しくて、ではなく、あまりに鮮明に今そこに寅さんが生きているからだ。山田洋次は、過去の名場面集のような映画には絶対にしない。そんなことはわかっていた。だけど、まるで目の前に今も彼がいるようにこの映画に彼が存在している奇跡を目の当たりにして、泣かないではいられない。
映画は満男が初恋の人である泉ちゃん(もちろん後藤久美子だ!)と再会して過ごす3日間のお話である。ずっと会えないでいた懐かしい人は、ほんとうは伯父さんである寅さんなのだけど、今寅さんには会えない。でも、この世に存在する泉ちゃんになら奇跡的に会える可能性はあった。だから、この映画はそんな奇跡を実現する。それはきっと天国の寅さんからのプレゼントなのだ。この映画の主人公はもちろん寅さんなのだけど、寅さんの遺伝子を受け継いだ満男のお話になっていることも事実だ。
今もし寅さん映画が作られるとしたら、どんなものになるのか。そんな奇跡がこの映画なのだろう。この先、山田洋次があと何本映画が作れるか、わからないけど、死ぬ前に絶対に作っておきたかった映画がこの映画だったのだろう。正直言うとこれは暗い映画である。だけど、これが山田監督の今の気持である。これでなくてはならない、と僕も思う。そして、忘れてはならない大事なものが、ここにはちゃんと詰まっている。
毎年2本、夏と冬に必ず寅さんが帰ってきた日々。やがて、それも1年に1本になったけど、でも、必ずお正月には寅さんは帰って来ていた。渥美清の死から、ずっと寅さんは柴又に帰ってきていなかった。だけど、今年の冬、長かったけど、ようやくまたお正月に寅さんに会える。うれしい。(僕はお正月まで待ちきれないので、公開初日である今日に見てしまったけど)