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僕にとっての初めての海外は台湾だった。それまでもずっと台湾にあこがれていた。それはこの映画のプロデューサーでもあるホウ・シャオシェン監督の映画を見たからだ。彼の映画には『坊やの人形』で初めて出会った。そして『童年往時』に夢中になった。あんなにも懐かしい風景がなぜ台湾にあるのだろうか、と思った。自分の原風景がそこにはあった。日本人なのに、台湾がなつかしかった。
初めて自分の目で見た台湾は飛行機から見た風景で、この映画のように空から見た。空港に近付き機体が低空飛行した時、その風景が見慣れた日本の風景ではなかったことに圧倒された。その時初めて外国に触れた、と思った。実際に町を歩いた時、やはり自分はこの風景を見たことがある、と思った。子供の頃、ここにいたような記憶がある。昭和30年後半の日本が当たり前のようにそこにある、と思った。もちろん、そんなわけではない。わかっている。でも、この懐かしさは本物だと実感した。
13年秋、台湾で大ヒットしたこのドキュメンタリー映画が、ようやく日本で初公開された。大阪アジアン映画祭のおかげである。それにしても、こんな地味な映画が本国で特大ヒットした。それもあり得ないことだが、この日本公開はもっとありえない。だが、実はそうではない。
こういう地味なドキュメンタリー映画がハリウッド映画並み、いや、それ以上のヒットになり、観客の熱狂的な支持を受けるのは、こうして実際に作品を目にしなければ理解できまい。この映画が扱う問題は台湾だけのことではない。だが、まず、これは台湾でなくては受け入れられない。そういう矛盾を抱えているのが、この作品の魅力なのだ。これがただの普遍性をもっと映画ならこんなにも、大衆から支持されなかっただろう。
台湾の美しい風景を空中から撮影しただけの観光映画ではない。ここに描かれる風景は台湾人にとっても、新鮮で得難い体験なのだ。台湾で暮らす人たちが、自分たちの国をこうして空から見ることはない。監督のチー・ポーリンは「国道新建工程局」の職員として長年航空写真を撮り続けてきた人らしい。だから、これは思い付きの企画なんかではない。筋金入りだ。ずっと空から台湾を見続けてきて、感じたこと、思ったことがこの作品のベースにある。よくぞまぁ、こんなにもさまざまな顔を切り取れたものだ。付け焼刃ではないこと。それがこの作品の力である。珍しい風景をみせるのではない。なんでもない風景ですら空から見たことで、視点が変わることで、こんなにも新鮮なものとなる。それが自分たちの暮らす島(国)である。よく知っているはずの場所がこんなにも新しい。
映画は何も言わない。ただ、それを圧倒的な空撮で見せ続けるばかりだ。ウー・ニェンチェンによるナレーションもまた、その自然を讃えるわけでもなく、つまらない感想を述べるでもない。ただ、ありのままを伝える。それが環境破壊の問題につながるのも、自然な流れだ。事実を事実のまま、見せていく。人間はこの雄大な自然の懐に抱かれて生きている。大地に根付くのは、僕たち(だけ)ではない。これはこの美しい世界で暮らす人たちへのメッセージなのだ。台湾人であることを誇りに思う。だからこそ、この台湾を守らなくてはならない。この映画はそんな想いを描いた作品だから、本国であれだけの大ヒットとなったのだろう。
では、これを日本人である僕たちが見る意味はどこにあるのか。語るまでもない。同じことなのだ。そこでこそこの映画の普遍性が力を持つ。同じように僕たちもまた日本という国を大事にしなくてはならない、ということをこの映画を通して教えられる。それは世界中どこでも同じであろう。大仰に地球を救え、とかそんなメッセージを発するのではない。そこにはこんなにも美しい島がある。この島が大好きだ。この島はこんなにも素晴らしい。それがすべてである。
カメラはかなり低いところにも、降りてくる。そこで暮らす人たちの日常を捉える。あるいは、彼らが手を振る姿を捉える。自然と、生き物(もちろん、そこには人も含まれる)とが共存する。一見こんなにも寡黙で単調そうに見える映画が圧倒的な力を持ち我々観客を捉える。ぜひ、日本でもロードショー公開してもらいたい作品だ。
初めて自分の目で見た台湾は飛行機から見た風景で、この映画のように空から見た。空港に近付き機体が低空飛行した時、その風景が見慣れた日本の風景ではなかったことに圧倒された。その時初めて外国に触れた、と思った。実際に町を歩いた時、やはり自分はこの風景を見たことがある、と思った。子供の頃、ここにいたような記憶がある。昭和30年後半の日本が当たり前のようにそこにある、と思った。もちろん、そんなわけではない。わかっている。でも、この懐かしさは本物だと実感した。
13年秋、台湾で大ヒットしたこのドキュメンタリー映画が、ようやく日本で初公開された。大阪アジアン映画祭のおかげである。それにしても、こんな地味な映画が本国で特大ヒットした。それもあり得ないことだが、この日本公開はもっとありえない。だが、実はそうではない。
こういう地味なドキュメンタリー映画がハリウッド映画並み、いや、それ以上のヒットになり、観客の熱狂的な支持を受けるのは、こうして実際に作品を目にしなければ理解できまい。この映画が扱う問題は台湾だけのことではない。だが、まず、これは台湾でなくては受け入れられない。そういう矛盾を抱えているのが、この作品の魅力なのだ。これがただの普遍性をもっと映画ならこんなにも、大衆から支持されなかっただろう。
台湾の美しい風景を空中から撮影しただけの観光映画ではない。ここに描かれる風景は台湾人にとっても、新鮮で得難い体験なのだ。台湾で暮らす人たちが、自分たちの国をこうして空から見ることはない。監督のチー・ポーリンは「国道新建工程局」の職員として長年航空写真を撮り続けてきた人らしい。だから、これは思い付きの企画なんかではない。筋金入りだ。ずっと空から台湾を見続けてきて、感じたこと、思ったことがこの作品のベースにある。よくぞまぁ、こんなにもさまざまな顔を切り取れたものだ。付け焼刃ではないこと。それがこの作品の力である。珍しい風景をみせるのではない。なんでもない風景ですら空から見たことで、視点が変わることで、こんなにも新鮮なものとなる。それが自分たちの暮らす島(国)である。よく知っているはずの場所がこんなにも新しい。
映画は何も言わない。ただ、それを圧倒的な空撮で見せ続けるばかりだ。ウー・ニェンチェンによるナレーションもまた、その自然を讃えるわけでもなく、つまらない感想を述べるでもない。ただ、ありのままを伝える。それが環境破壊の問題につながるのも、自然な流れだ。事実を事実のまま、見せていく。人間はこの雄大な自然の懐に抱かれて生きている。大地に根付くのは、僕たち(だけ)ではない。これはこの美しい世界で暮らす人たちへのメッセージなのだ。台湾人であることを誇りに思う。だからこそ、この台湾を守らなくてはならない。この映画はそんな想いを描いた作品だから、本国であれだけの大ヒットとなったのだろう。
では、これを日本人である僕たちが見る意味はどこにあるのか。語るまでもない。同じことなのだ。そこでこそこの映画の普遍性が力を持つ。同じように僕たちもまた日本という国を大事にしなくてはならない、ということをこの映画を通して教えられる。それは世界中どこでも同じであろう。大仰に地球を救え、とかそんなメッセージを発するのではない。そこにはこんなにも美しい島がある。この島が大好きだ。この島はこんなにも素晴らしい。それがすべてである。
カメラはかなり低いところにも、降りてくる。そこで暮らす人たちの日常を捉える。あるいは、彼らが手を振る姿を捉える。自然と、生き物(もちろん、そこには人も含まれる)とが共存する。一見こんなにも寡黙で単調そうに見える映画が圧倒的な力を持ち我々観客を捉える。ぜひ、日本でもロードショー公開してもらいたい作品だ。