カズオ・イシグロ「遠い山なみの光」

             

 カズオ・イシグロについては何といっても「日の名残り」です。人間の細やかな感情、上品で美しい謙虚さを緻密に情感たっぷりに描いた現代を代表する傑作、それを英国籍に変更したとはいえ長崎生まれの日本人が創り上げたことは本当に誇りに思います。ただ、同様に評価の高い「わたしたちが孤児だったころ」、「わたしを離さないで」は若干その世界に入り込めないで中途半端に終わっていました。

 先日、NHKで「カズオ・イシグロをさがして」というドキュメンタリー番組があり、改めて作品を読んでみようという気になりました。長編第一作の「遠い山なみの光」です。

 カズオ・イシグロのテーマの一つである遠い日の追憶、記憶は美しく再生されるが、実際には思い出したくない心痛む現実、悲しみがすぐ隣にあったことも徐々に明らかになる・・・。
 
 この作品にはこうした著者の原型が分かり易く描かれています。昔の典型的日本人女性とイメージできる心優しい妻、母親、隣人である悦子。物語は悦子と長崎時代の関係者との思い出で構成されています。心細やかな悦子に共感しつつも、義父は大好きだったのに最初の夫と離婚し、移り住んだイギリスで長女が引き籠ったうえに自殺する、再婚した夫も死に、次女ともシックリいっているとはいい難く、今は一人で暮らしている、そんな事実が徐々に明らかになってきて違和感を覚えます。

 結局、最後まで悦子の身に何が起きたのか分かりません、思いやりがあり理想的な女性のような悦子は何者なのか、不可抗力による深い悲しみなのか、悦子に何か問題があるのか・・・謎が残ります。気を掛ける隣人とも価値観が異なり、一体何故この人達と付き合っているのかよく分からない。純文学なんだけどミステリーのような作品、何とも言えない掛け違いの感覚、これもカズオ・イシグロの特徴・魅力なんだと思います。

 会話のテンポが良くて引き込まれます。個人的にも生まれだけは長崎で旅行で何度も行っているので感情移入して読めました(舞台は長崎といっても架空の街のように描かれていますが)。この作品の魅力をうまく表現できないのですが、そこがまさに芸術、心に余韻の残る作品、私はこの手の感情に訴えてくる物語が大好きです。カズオ・イシグロ再発見シリーズ、まずは大満足です。


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ヤマザキマリ「テルマエ・ロマエ」

             

 久しぶりの快作です。第1巻は面白くても、その後がマンネリ化するマンガが多いので最近はあまり手に取らないのですが、ヤマザキマリの「テルマエ・ロマエ」(ローマの浴場の意味)は面白くて嵌りました。半年後でしょうが第4巻が今から待ち遠しいです。

 ちょっと昔の日本人のように毎日大浴場に通う習慣のあったローマ帝国時代の大衆。その浴場建築技師のルシウス、様々な難題にぶつかり悩んでいるとお湯を通じて、現代日本の銭湯、温泉場、クアハウスなどにタイムスリップするようになります。そこでルシウスが出くわす平たい顔族(日本人)とのドタバタ、異文化との遭遇を巡る喜劇です。笑えます。
 各話とも同じ展開なのですが読んでいてストーリーにのめり込めます。日本人なら誰でも大好きお風呂文化に共感するからでしょう。大きなお風呂の中でゆったり過ごす登場人物らと一緒になって緩いリラックス感を味わう。また温泉行きたいなあ。

 作品を引き締めているのが、1~2世紀頃のローマの史実をある程度反映させていることです。重要な登場人物として五賢帝の3人目のハドリアヌスが出てきます。また「自省録」で有名な五賢帝最後のマルクス・アウレリアスも登場しています。

 作者のヤマザキマリはよく分からないのですが、若い頃にイタリアに留学して絵の勉強をしていて、その後、マンガを描き始めたようです(だから作画はかなり高水準)。夫もイタリア人であり、イタリア、ローマ帝国などについて相当詳しそうです。

 「自省録」は青春の書でよく読んでいました。マルクス・アウレリアスが自分自身に言い聞かせた様々な哲学、教訓、反省点の断片集ですが、特に現在について言及した文章が印象に残っています。

 
 「たとえ君が三千年生きるとしても、いや三万年生きるとしても、記憶すべきはなんぴとも現在生きている生涯以外の何物をも失うことはないということ、またなんぴとも今失おうとしている生涯以外の何物をも生きることはない、ということである。したがって、もっとも長い一生ももっとも短い一生と同じことになる。なぜなら現在は万人にとって同じものであり、ゆえに失われる時は瞬時にすぎぬように見える。なんぴとも過去や未来を失うことはできない。自分の持っていないものを、どうして奪われることがありえようか。であるから次の二つのことをおぼえていなくてはいけない。第一に、万物は永遠の昔から同じ形をなし、同じ周期を反復している、したがってこれを百年見ていようと、二百年見ていようと、無限にわたって見ていようと、なんのちがいもないということ。第二に、もっとも長命の者も、もっとも早死する者も、失うものは同じであるということ。なぜならば人が失いうるものは現在だけなのである。というのは彼が持っているのはこれのみであり、なんぴとも自分の持っていないものを失うことはできないからである。」

 「君の全生涯を心に思い浮かべて気持をかき乱すな。どんな苦労が、どれほどの苦労が待っていることだろう、と心の中で推測するな。それよりも一つ一つ現在起ってくる事項に際して自己に問うて見よ。「このことのなにが耐え難く忍び難いのか」と。まったくそれを告白するのを君は恥じるだろう。つぎに思い起すがよい。君の重荷となるのは未来でもなく、過去でもなく、つねに現在であることを。しかしこれもそれだけ切り離して考えて見れば小さなことになってしまう。またこれっぱかしのことに対抗することができないような場合には、自分の心を大いに責めてやれば結局なんでもないことになってしまうものである。」


 こういった文章が若い頃、心の琴線に触れたようで、鉛筆で傍線を引っ張っていました。


 まさかマンガを読んでいて、マルクス・アウレリアスに出くわすとは思ってもみなかったです。



             


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