想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

写真消えたその後

2009-09-05 23:49:03 | Weblog

下は3月末にケータイで撮ったもの、ここに落ち着いてくれるかしらと心配していた。
夏にはどの木もたくさんの葉が繁り、根元周辺に植えたバラの苗木もハーブも咲いた。



写真ソフト(iphoto)の中の撮り貯めた写真を時系列でみていると、その時々の出来事や
人のことを思い出す。記憶の扉をあける鍵みたいだと思ったりした。
このたびハードディスクを取り替えたのでmacの中は新品になった。つまり写真は消えた。
バックアップしていない数千枚の写真、約1年半分だ。
ところが、その期間に撮った景色、光景を、意外に思い起こすことができる。
親分が10歳時分の森の景色。
ブログ掲載の写真だけが無事で、その写真をみていると他に撮った光景が思い出される。
フォルダの中にあった写真をスライドショーでみていたときよりも、より覚えている気が
する。失ってしまったので脳が再生を試みているのか、別に頼んでいないのに。

データは救出不可能と知ったとき、デジャブのような感じがして秋葉原の街を歩きながら、
これは何だろう?と考えていた。
ああ、電車にバッグを置き忘れて手帳やら仕事道具やらパスポートやら免許証やら
財布やら一度に無くしたあのときと似ている。その夜、一晩だけ妙にサバサバして
いたことなどを思い出した。
執着から自ら解き放たれるのは難しい、捨てよう捨てよう、捨てなきゃと思うと
できない。でも一発で全部無いぞー、無くても歩いているじゃないか、なんて思ったり
してた。かなりうろたえた後のことだが、夜にはそういう心境だった。

翌朝、メトロの忘れ物回収所のようなところへ連絡して見に行くと、ほぼそのまま発見。
サバサバは一晩だけだったので、凝りずに再びでかいバッグを持ち歩く日々に戻った。
今回はサルベージ依頼し一週間待って、何もかも消えました、という結末である。
なんだかよかった気もしている。
あまり、なんでも溜め込むとろくなことはない。

物事、終わるときは終わる。
ダラダラとけじめをつけないのはよくないのである。
季節が過ぎて枯木が潤い若葉が繁り、色づき、ふたたび木枯らしの季節となる。
めぐる歳月とともに物事も移ろっていくので、性急なのはいけないと戒めてきた。
けれども歳とともに、緩急のあんばいを見定めることもわかってきた。
(清原がよく我慢したねと誉められるCMは好きだ、でも猫相手じゃないよ)

ダラダラとどっちつかずで流されているように見えても、当事者に流れる意思が
あるわけではない。たいていは自己中だから流されているだけだ。
たとえば、木の葉の舟が川を流れていく。
岸辺に立てば木の葉が流れているのが見える。
舟から見れば、岸辺に立つものが後ろへ去っていくように見える。
どちらが正しいかと考えるのが自己中の思考パターンで、己が正しいと思うだろう。

見えるものをそのまま見る。現実の事実を捉え、いったん受容する。
それができないと、自己の立ち位置が見えない。自分の行く方も見えない。
もちろん相手も周囲も見ていない。
正確には見えないではなくて、見ようという気持ちがないから見えない。
あるのは、自分が思うことだけである。それっきり考えないから目先のことだけだ。
で、流される。

ハードディスク新品だと、とてもサクサクとしてて具合がいい。
そろそろ次のOSへ乗り換えるいい機会なんだが。
明日からまた写真を撮って、季節の変わり目を記録していこう。
次々に思いがけないことが起きるからなあ、撮ろう。
でも起きたことがどこかでわかっていたような気もする。
それを証明するには、今思っていることを日記に書いておくことだな。
ブログに書けないことを日記に手書きで書いておこう。
消えちまわないように、万年筆で。

とりあえず…、
今日、ブロック塀の上を歩いていたグレーシマシマの猫に、トラちゃんと呼びかけたら
立ち止まった。目が綺麗!
あれは事務所付近の猫おばさんが捜索中の「トラ」だ、きっと、まちがいない。
野良猫一族には見えんなあ。
シマコを美人と思ってたことが瞬間揺らいだが、シマコはカメ基準だからな、うん。
コメント
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