端粛(タンシュク)。
「人間の活力の動かんとして、いまだ動かざる姿と思う」、
それがもっとも美しい理想の姿である(ギリシア彫刻において)という。
漱石の「草枕」の中で画工がのたもうているのであるが、その説明を
つらつら読み進んで、かならず膝を打ちたくなる。
合点がいく。
だよね~と言いたくなる。
「動と名のつくものは必ず卑しい。運慶の仁王も北斎の漫画も
全くこの動の一字で失敗している。動か静か。」(「草枕」)
この二行の前にある数行に合点がいくのである。
だから動でも静でも悪くはないが、動なら動の、静なら静の定まった
ところの責任というかすでに背負ったものを引き受けねばならんと
いう、そういうあたりまえなんだけど、意外にやっちまったなあ的に
陥る平凡を突いている、そこが漱石の神経症的な笑いである。
白黒、善し悪し、行く行かぬ、二つのどちらかに急ぎ断ずることが
美徳ではないというのである。
表面にあらわれるそれらの結果の裏側に秘された「アワイ」を
瞬時にきりとる才を霊能というのではないか。
霊しき、それそのものは「アワイ」に満ちて、そこからどうかわり
(易り)定まるかは瞬く間のことである。
きりとったそれを画面に白紙に乗せるのは、心の技であるから、
迷うことや、待つことを厭う健康なる凡人には観ることが難しい。
画工の話は現実の女人のことに及んでいくのであるが、物語のそれ
よりも行間にのぞく漱石の思索が面白くてならない。
漱石の孫である半藤末利子さんの著書「漱石の長襦袢」が出たので、
時間があるときの楽しみメモにしてある。まだ手元にないのだけれど
すでに読んだ気分なのが変だ。旅先に行く前から行った気になって
楽しいのに似ているな。
(半藤末利子さんは昭和史物を描けばこの人をおいてなしの作家、
半藤一利氏夫人、前作に「夏目家の福猫」「夏目家の糠みそ」)
「人間の活力の動かんとして、いまだ動かざる姿と思う」、
それがもっとも美しい理想の姿である(ギリシア彫刻において)という。
漱石の「草枕」の中で画工がのたもうているのであるが、その説明を
つらつら読み進んで、かならず膝を打ちたくなる。
合点がいく。
だよね~と言いたくなる。
「動と名のつくものは必ず卑しい。運慶の仁王も北斎の漫画も
全くこの動の一字で失敗している。動か静か。」(「草枕」)
この二行の前にある数行に合点がいくのである。
だから動でも静でも悪くはないが、動なら動の、静なら静の定まった
ところの責任というかすでに背負ったものを引き受けねばならんと
いう、そういうあたりまえなんだけど、意外にやっちまったなあ的に
陥る平凡を突いている、そこが漱石の神経症的な笑いである。
白黒、善し悪し、行く行かぬ、二つのどちらかに急ぎ断ずることが
美徳ではないというのである。
表面にあらわれるそれらの結果の裏側に秘された「アワイ」を
瞬時にきりとる才を霊能というのではないか。
霊しき、それそのものは「アワイ」に満ちて、そこからどうかわり
(易り)定まるかは瞬く間のことである。
きりとったそれを画面に白紙に乗せるのは、心の技であるから、
迷うことや、待つことを厭う健康なる凡人には観ることが難しい。
画工の話は現実の女人のことに及んでいくのであるが、物語のそれ
よりも行間にのぞく漱石の思索が面白くてならない。
漱石の孫である半藤末利子さんの著書「漱石の長襦袢」が出たので、
時間があるときの楽しみメモにしてある。まだ手元にないのだけれど
すでに読んだ気分なのが変だ。旅先に行く前から行った気になって
楽しいのに似ているな。
(半藤末利子さんは昭和史物を描けばこの人をおいてなしの作家、
半藤一利氏夫人、前作に「夏目家の福猫」「夏目家の糠みそ」)