ベイビーやシマコのことや、食いもんの話が続いてて、
久々にフルゴトの話です。中間を取って軽めのタイトル
でいきます。
聖徳太子の予言といえば「未然本紀」のことかと知ってる
つもりの方もいるかもしれませんが…、ちょっと違う、それ
以前の話です。
そもそも予言があったとして、その予言の書をどう読み解くか
を後世の人がああだこうだと議論しますね。推察するわけです。
そういう想像には限界があります。
言葉の用い方、字義、時代背景など考慮したにしても、狭義の
解釈になりがちです。
すくなくとも旧事本紀の未然本紀についていえば、膨大な量に
及ぶ全体像を把握せず未然だけ取り出して論ずるからなのです。
未然本紀を解明したぞーという本は幾つかありますが、そうか
そうか、わかったのかと手にしてみると、いわゆるトンデモ本
だったりします。ユダヤ教とかY4とかと結びつけたり前世とか
いう言葉も飛び交っててがっかりします。
勝手に解明して満足してんですねえ、で、それがどうした?と
ツッコム気にもなれないザンネンさです。
なんでそういうことになるのかというと旧事に使われている字義、
文体の特徴、それが何を意味するのか、そもそもクジキの根底に
あるのは何かをわかっていない、それがズレれば当然文意の解釈
も違ってくるのです。
聖徳太子が存命の頃に、人の数(人口)が増えていくと人の心が
荒廃し世の中が乱れていくだろうということを懸念された一文が
「未然本紀」ではなく他の巻に幾度か出てきます。
なぜそうなるかという理由とともにどうあるべきかという教えが
書かれています。これを読み取れば「予言」とは何かがわかり、
未然イコール予言というとらえ方とは異なります。
たとえば何年おきかにノストラダムスの予言がブームになって
終末論が雑誌をにぎわしますしオタクもいて、好きなんですねえ、
そういうの、みんな釣られてふとそうかもしれない、そうなの?
なんて半信半疑な気持ちになったりするんですね。
でもあおるだけあおっておいて時が来ても何事も起こらずに、
煽ってた人はいつのまにかいなくなってて…同時に人々の不安も
忘れ去られていきます。気にしなくなります。オタクは別の
不安案件を探します(笑)
平成生まれの人が昭和の時代をほとんど知らないので、何を聞い
ても「へーっ?、そうなの? うっそー?」とリアクションする、
このように時代が違えばわからないので繰り返し同じネタで不安
心を煽る者が現われるのです。
不謹慎なことに予言もネタ扱いにする人は無責任に本なんか出し
たりします。それがまた売れたり話題になったり…それが世間の
現実です。
富士山爆発、地震で首都壊滅!そういう話が飛び交っていたのは
まだ記憶新しい気もするのですが、ブームは沈静化してますね。
次はいつでしょうかね。
おかげでハザードマップが作られたのはとても良いことでしたが、
戸棚の奥にしまったまま…なんてことになってたりして。
一方で科学者、あるいは知識人であるよんと自認する人々はこの手
の話をバカにします。フン、ばっかじゃねえの、ってなもんです。
心配は人並みにするけど科学的根拠がはっきりしないものは一切
認めないという考えですね。
ごもっともだと知識人でもないし科学に疎いうさこも思います。
思いますけど、科学的根拠というのは物事が起きて後付けでないと
わからないことが多いことも確かなのです。地上のあらゆる場所
で、事故と破壊という失敗が今も繰り返されているのですから。
実験したり調査してデータを取り統計をとったりして、仮説を
立て、仮説ですから地震予報もザンネン、天気予報もはずれる、
でも世界は明日も明後日も続いてる。科学はどうした?と後で
ツッコンでももう過ぎてるし、結局人為的なことというのが最後に
問題になります。
(今、ニュースになっている振興銀行の木村氏の言葉を借りれば
「ヒューマン・エラー」よく言うなあ…知ったかぶりの知識人
もどきは英語で言えばわかんないと勘違いしてる例ね(蛇足)。
科学でもそれを使って考えるのが人なら、予言するのも人、人々の
迷う不安な気持ちがインパクトのある予言の方へ傾いているのは、
現実に科学が当てにならない事に関してのようです。
科学か、予言か、どっちもどっち的なくらいの勝負だけど未来を
知りたがるところは人みな同じです。悟らないかぎり、ね。
(次回へ続き、結論)
久々にフルゴトの話です。中間を取って軽めのタイトル
でいきます。
聖徳太子の予言といえば「未然本紀」のことかと知ってる
つもりの方もいるかもしれませんが…、ちょっと違う、それ
以前の話です。
そもそも予言があったとして、その予言の書をどう読み解くか
を後世の人がああだこうだと議論しますね。推察するわけです。
そういう想像には限界があります。
言葉の用い方、字義、時代背景など考慮したにしても、狭義の
解釈になりがちです。
すくなくとも旧事本紀の未然本紀についていえば、膨大な量に
及ぶ全体像を把握せず未然だけ取り出して論ずるからなのです。
未然本紀を解明したぞーという本は幾つかありますが、そうか
そうか、わかったのかと手にしてみると、いわゆるトンデモ本
だったりします。ユダヤ教とかY4とかと結びつけたり前世とか
いう言葉も飛び交っててがっかりします。
勝手に解明して満足してんですねえ、で、それがどうした?と
ツッコム気にもなれないザンネンさです。
なんでそういうことになるのかというと旧事に使われている字義、
文体の特徴、それが何を意味するのか、そもそもクジキの根底に
あるのは何かをわかっていない、それがズレれば当然文意の解釈
も違ってくるのです。
聖徳太子が存命の頃に、人の数(人口)が増えていくと人の心が
荒廃し世の中が乱れていくだろうということを懸念された一文が
「未然本紀」ではなく他の巻に幾度か出てきます。
なぜそうなるかという理由とともにどうあるべきかという教えが
書かれています。これを読み取れば「予言」とは何かがわかり、
未然イコール予言というとらえ方とは異なります。
たとえば何年おきかにノストラダムスの予言がブームになって
終末論が雑誌をにぎわしますしオタクもいて、好きなんですねえ、
そういうの、みんな釣られてふとそうかもしれない、そうなの?
なんて半信半疑な気持ちになったりするんですね。
でもあおるだけあおっておいて時が来ても何事も起こらずに、
煽ってた人はいつのまにかいなくなってて…同時に人々の不安も
忘れ去られていきます。気にしなくなります。オタクは別の
不安案件を探します(笑)
平成生まれの人が昭和の時代をほとんど知らないので、何を聞い
ても「へーっ?、そうなの? うっそー?」とリアクションする、
このように時代が違えばわからないので繰り返し同じネタで不安
心を煽る者が現われるのです。
不謹慎なことに予言もネタ扱いにする人は無責任に本なんか出し
たりします。それがまた売れたり話題になったり…それが世間の
現実です。
富士山爆発、地震で首都壊滅!そういう話が飛び交っていたのは
まだ記憶新しい気もするのですが、ブームは沈静化してますね。
次はいつでしょうかね。
おかげでハザードマップが作られたのはとても良いことでしたが、
戸棚の奥にしまったまま…なんてことになってたりして。
一方で科学者、あるいは知識人であるよんと自認する人々はこの手
の話をバカにします。フン、ばっかじゃねえの、ってなもんです。
心配は人並みにするけど科学的根拠がはっきりしないものは一切
認めないという考えですね。
ごもっともだと知識人でもないし科学に疎いうさこも思います。
思いますけど、科学的根拠というのは物事が起きて後付けでないと
わからないことが多いことも確かなのです。地上のあらゆる場所
で、事故と破壊という失敗が今も繰り返されているのですから。
実験したり調査してデータを取り統計をとったりして、仮説を
立て、仮説ですから地震予報もザンネン、天気予報もはずれる、
でも世界は明日も明後日も続いてる。科学はどうした?と後で
ツッコンでももう過ぎてるし、結局人為的なことというのが最後に
問題になります。
(今、ニュースになっている振興銀行の木村氏の言葉を借りれば
「ヒューマン・エラー」よく言うなあ…知ったかぶりの知識人
もどきは英語で言えばわかんないと勘違いしてる例ね(蛇足)。
科学でもそれを使って考えるのが人なら、予言するのも人、人々の
迷う不安な気持ちがインパクトのある予言の方へ傾いているのは、
現実に科学が当てにならない事に関してのようです。
科学か、予言か、どっちもどっち的なくらいの勝負だけど未来を
知りたがるところは人みな同じです。悟らないかぎり、ね。
(次回へ続き、結論)