(続き)
どちらにも偏らないでもっと考え、深く広く考察している知識人
はとても少ないし、そういう人はテレビにも雑誌にも出ない。
よって真実、大衆の不安を解消するところとはならないわけです。
不景気だとテレビも雑誌も占い師がバンバン出てきますね、人気の
占い師募集ってテロップが番組最後に流れたりして、募集って自薦
かよって思うけど。
(昔のことは忘れたわ、今があるだけよ、by st.simako)
予言とは、物事の理を読み解くことができる人の言葉、簡単にいえば
そうです。預言とは違います。
よって理がわかればその言葉の意味もわかります。
聖徳太子は人口が増えればどうなるか、どのように変わっていくかが
見えていた、つまり理に長けた人でありました。
ゆえに人々の心が荒廃し物質至上主義、拝金主義になり世間も国も
乱れていくだろうと案じられました。
ま、ここ百年の歴史を振り返ってみるだけでもその通りになっている
ことがわかります、でも聖徳太子の時代からみれば、崩御されてすぐ
から激しくなった権力争い、そして新法、律令制施行の時から乱世
は始まったといえます。
聖徳太子は古来から伝わる教えは失われ、人はいかに生きるべきかを
見失っていくことを憂えられました。
そして大切なことは記しておくべきである、これは急務であると時の
推古帝に奏上され、そして編纂された書物が先代旧事本紀大成経です。
難解難解、時には偽りと言われながら、千年を超え、またさらに数百年
を超え今に至るのですが、その言葉は今なお鮮烈で貴重なものです。
テレビで人気の沖縄のユタ、占い師が聞きもしないことをバシバシと
言い当てアドバイスしてるのがなぜか?
理がわかっていれば、その理由はわかります。
なんでもエーッ、当たるぅ、と驚くのはテレビ演出もあるでしょうし、
驚く人の気持ちもわからなくないけど、そんなに驚くほどのことでも
ないのです。反対に、理がわかれば占い師のウソも見えます。
テキトウっぷりが透けます。
うさこは十九歳の頃、占いにハマッテ毎日占い漬けだったというアホ
時代を過ごしてたという、今で思うとかなりヤバイハズカシの過去が
あるのですが、だからこそ占いにエーッ、ホントー、ウソーと叫んで
る人の気持ちはわかるんだなあ。(見てもらう方ではなく自分でやる
方にハマッテました、それで寝不足…、授業中は居眠り…)
でもそのアホ時代を経てミソジになってフルゴトを学ぶようになって
から、占いは遠い遠い昔のこととなりました。
当たるも八卦当たらぬもナントカなんてやってるよりも、理を学ぶ
方が未来を明るくしてくれるとわかりました。
だから今は占いませんよ。
(占いは神事から子どもの遊びまで幅広くあるんだなあ、これが)
理ってなんだよー、わからんぞー、占いのほうがわかりやすいと
思うなら、迷い続け、あるいは妄想の日々をできるだけ楽しむべし。
そして疲れきるほど妄想すれば、少しは理を思えるようになるかも
しれないですね。うさこはカメに「よせよ、妄想すんな」と言われ
怒られ、かなり努力してやめたんですけど。
おかげで理はわかるようになりました。
理とはなんぞや、そう難しいことでもないです。
過去記事に書いてあります。
理とは「縁→生→極→易→定」の流れ。
神といえども理を以って成すとあります。ゆえに理を見抜けば、
予めわかる、予言できるということです。
必然か偶然かということでおおかたが迷いますが、理を見通せば
偶然はないということになります。
「不思議」もまたないわけです。知らないわからないと不思議と
いいます。また仏教で使われる不思議の意味は、法力、仏の力の
偉大さを称える意味あいで使われています。
文字通りにとって今風の解釈、奇跡的ではないのですね。
意外に仏教者、僧侶でもそのことを知らない人がいるので要注意、
一般の人が惑わされます。
付け加えると、理が見えるようになることを理を明らかにすると
言います。理を極めるには理明が必要なのです。
それはどうすればいいの? と言う人はカメの門を叩くしかない
のでうさこがここでダラダラ書いても無理ってもんです。
不思議は不立文字、理明もまたそういうことですから、フルゴト
では霊しき(あやしき)と表されています。
結論、理がわかれば予め今より先がどうなるかわかるってことです。
言い換えると、今の状況を冷静に分析できなくて未来はわからない
ということです。
どちらにも偏らないでもっと考え、深く広く考察している知識人
はとても少ないし、そういう人はテレビにも雑誌にも出ない。
よって真実、大衆の不安を解消するところとはならないわけです。
不景気だとテレビも雑誌も占い師がバンバン出てきますね、人気の
占い師募集ってテロップが番組最後に流れたりして、募集って自薦
かよって思うけど。
(昔のことは忘れたわ、今があるだけよ、by st.simako)
予言とは、物事の理を読み解くことができる人の言葉、簡単にいえば
そうです。預言とは違います。
よって理がわかればその言葉の意味もわかります。
聖徳太子は人口が増えればどうなるか、どのように変わっていくかが
見えていた、つまり理に長けた人でありました。
ゆえに人々の心が荒廃し物質至上主義、拝金主義になり世間も国も
乱れていくだろうと案じられました。
ま、ここ百年の歴史を振り返ってみるだけでもその通りになっている
ことがわかります、でも聖徳太子の時代からみれば、崩御されてすぐ
から激しくなった権力争い、そして新法、律令制施行の時から乱世
は始まったといえます。
聖徳太子は古来から伝わる教えは失われ、人はいかに生きるべきかを
見失っていくことを憂えられました。
そして大切なことは記しておくべきである、これは急務であると時の
推古帝に奏上され、そして編纂された書物が先代旧事本紀大成経です。
難解難解、時には偽りと言われながら、千年を超え、またさらに数百年
を超え今に至るのですが、その言葉は今なお鮮烈で貴重なものです。
テレビで人気の沖縄のユタ、占い師が聞きもしないことをバシバシと
言い当てアドバイスしてるのがなぜか?
理がわかっていれば、その理由はわかります。
なんでもエーッ、当たるぅ、と驚くのはテレビ演出もあるでしょうし、
驚く人の気持ちもわからなくないけど、そんなに驚くほどのことでも
ないのです。反対に、理がわかれば占い師のウソも見えます。
テキトウっぷりが透けます。
うさこは十九歳の頃、占いにハマッテ毎日占い漬けだったというアホ
時代を過ごしてたという、今で思うとかなりヤバイハズカシの過去が
あるのですが、だからこそ占いにエーッ、ホントー、ウソーと叫んで
る人の気持ちはわかるんだなあ。(見てもらう方ではなく自分でやる
方にハマッテました、それで寝不足…、授業中は居眠り…)
でもそのアホ時代を経てミソジになってフルゴトを学ぶようになって
から、占いは遠い遠い昔のこととなりました。
当たるも八卦当たらぬもナントカなんてやってるよりも、理を学ぶ
方が未来を明るくしてくれるとわかりました。
だから今は占いませんよ。
(占いは神事から子どもの遊びまで幅広くあるんだなあ、これが)
理ってなんだよー、わからんぞー、占いのほうがわかりやすいと
思うなら、迷い続け、あるいは妄想の日々をできるだけ楽しむべし。
そして疲れきるほど妄想すれば、少しは理を思えるようになるかも
しれないですね。うさこはカメに「よせよ、妄想すんな」と言われ
怒られ、かなり努力してやめたんですけど。
おかげで理はわかるようになりました。
理とはなんぞや、そう難しいことでもないです。
過去記事に書いてあります。
理とは「縁→生→極→易→定」の流れ。
神といえども理を以って成すとあります。ゆえに理を見抜けば、
予めわかる、予言できるということです。
必然か偶然かということでおおかたが迷いますが、理を見通せば
偶然はないということになります。
「不思議」もまたないわけです。知らないわからないと不思議と
いいます。また仏教で使われる不思議の意味は、法力、仏の力の
偉大さを称える意味あいで使われています。
文字通りにとって今風の解釈、奇跡的ではないのですね。
意外に仏教者、僧侶でもそのことを知らない人がいるので要注意、
一般の人が惑わされます。
付け加えると、理が見えるようになることを理を明らかにすると
言います。理を極めるには理明が必要なのです。
それはどうすればいいの? と言う人はカメの門を叩くしかない
のでうさこがここでダラダラ書いても無理ってもんです。
不思議は不立文字、理明もまたそういうことですから、フルゴト
では霊しき(あやしき)と表されています。
結論、理がわかれば予め今より先がどうなるかわかるってことです。
言い換えると、今の状況を冷静に分析できなくて未来はわからない
ということです。