想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

もみじ子

2009-11-13 09:39:44 | Weblog
はい、わたしは紅葉子です。伊呂波家の末娘、森の幼稚園生なので、早くガッコに
行きたいです。そろそろ幼稚園もお休みなので、おうちでかあさんと一緒です。
それもとても好きです。



水が減ってきました。雪が降って、融けた水が流れてくるまでしばらくこのくらい。
落ち葉も溜まりますね。
きりがないので小川の落ち葉かきは来春までナシね。



はい、最後は切り倒したどんぐりの根っこに生えていた苔子さん。
こちらは妙齢なので、モテモテ。カメラにも慣れたものです。
いつもより、ピカっと光ってました。



(本日移動中、ベイビーは車の指定席でガーガーと寝てます)

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辺野古の青年はどうしているだろうか。

2009-11-12 01:58:15 | 
時間差で紅葉が楽しめた。先週一番だったのは小川沿いの奥にある樹。
もうあらかた風で散ってしまったけど、裏の山にはまだ紅く染まった樹々が残っていた。

都会にいると想像もつかないだろうけど、水の心配をよくする。
沖縄に仕事で行ってたとき、周囲を海で囲まれているのに水の心配が絶えないのだと
聞いた。なんにも知らない自分を恥じたけれど、この山で暮らしていると水に敏感になる。
自然がごく身近にあるからおのずとその価値もありがたみも、そして怖れも知らされる。



この山はたくさんの水を蓄えてくれる。広葉樹林の森があるから。
けれども地下水をくみ上げすぎて荒れ果てた土地、山はたくさんある。
中国人が九州の山を買いあさっていると聞いた。
もちろん直接ではなく不動産ブローカーを通じてだ。日本人のブローカーだ。
いつの時代もあとさき考えず目先の利で動くやからはいるものだな。
中国人ビジネスマンの目的は水だ。かの大陸は水不足だ。大河を二つも擁しているのに。
古来、治水に知恵をめぐらすより目先の利を追う争いの歴史だから。

水利権をめぐる競争は熾烈なのに、日本の法律はどうなっているのだろうと思う。
何かを守ろうとするのは、闘いだ。
なりゆきまかせでいいわけがない。強者が奪って行く。



『言い難き嘆きもて』大江健三郎(2001年)に収録された「沖縄の〈魂〉」の章に
普天間米軍基地返還と辺野古ヘリポート建設計画(基地移設)のことが書かれていたことを
思い出し、取り出してみた。
いままさに焦点となっていることを8年前の時点で懸念し、書かれたものだ。
今、目前に迫ってニュースの目玉になって、ヒラリー・クリントンが「不確実は好ましくない」
と言ったと報道されているけれど、もう長いこと不確実なことを一方的に確定してきたのだ。
この話に出てくる反対運動をしている青年、東恩納さんはどうしているだろうかと思う。
辺野古の海のジュゴン、生きる場所はあるだろうか。
じゅごんの里

わたしはいつも思う。
だんだんと歳をとって、果たして自分の暮らしを守るためにいついかなるときも自分で立てる
人間であれるのか、おまえはと。
闘っている人をみるたび、我が胸の奥には小さく揺れる火があるかと確かめる。
くっと息が詰まるようなここちがして、震える。

戦争で戦争を防ぐことはできない。
戦争は戦争を拡大させるだけである。
簡単な理屈であるのに、アメリカは軍備をやめない。
軍需産業以外で食って行く道を、考えたことはないのか。
誰か奴らに教えてあげてくれないか。
マジでそんなことを日に1度でも思わない日はないが、空しいこととすぐに気づいて
寂しくなる。そして慣れることを恐れている。

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エビタイな午後

2009-11-11 11:16:26 | Weblog

宇都宮のSさんから、伊勢エビあります持ってきます、と連絡があった。
IC付近のコンビニ駐車場で待っていると、Sさんが同乗のお母様と現れた。
大きな発泡スチロールの白い箱を抱えて降りてくる。
なんだかうれしくて笑っているような困ったような顔をして。

「ええええええっと先生がいらっしゃるとは思わなかったーー、うさこさんだけかと
思ってたーーーー」と言いながら箱を手渡してくれる。
そうか、そうか、カメのことか。
「ラッキーラッキー、母が一緒にくるっていうから少し遅くなったけど
ラッキー、センセに会えるなんてよかった、よかった、びっくりした」
とちょっと何言ってんのかわかんないくらい早口で言うのであった。

そうかそうか、よかったか。
センセに会えるとは思わなかったって喜んでいるのかうろたえているのか、
思わぬところで期待しないことが起きると、たしかに儲けた気がするな、そうだそうだ
エビタイなんだな。

タナボタとも言うね、こういうの。でもボタ餅って感じじゃないものね、カメは。
うさこならまあボタ餅、あんころ餅ってことなんだろうけど。
伊勢エビ5尾だもの、うさこに会うだけじゃ引き合わないよね(と、ややひがむ)
こういうのは虫の知らせとは言わないから、なんというのかな。
無心の知らせ、なんちゃって。

すっごくおいしゆうございました。2尾なのはブログ写真用にということ。
「北海道からのじゃがいも」といっしょに調理していただきました。
海老君たち、まだ冷凍庫に眠っているので次回は網焼きですかね。
週末来る人は期待しないように。君たちにはコロッケです。




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君と一緒がいい

2009-11-10 00:00:47 | Weblog
裏の山道へ散歩。がっさがっさとスニーカーで落ち葉を踏んで歩く。
ざっざっざっざと、ベイビーは今日は元気に走る。
いつになくはりきっている。
この道が好きなんだな、小さいときからここを昇っていくのが楽しみだったものな。



なだらかだけど、だんだんと高度があがってゆく。
谷間、窪地にある家が遠のいていく。
雑木林を抜けて、山の稜線をのぞむ見晴らしのいいところまで昇りたいのだ。

熊はまだ山に食糧が豊富だから降りてはこないだろうけど、ひとりで歩くのは少し
こころぼそいなあ。
ベイビーは先に返して(脚が痛くなるから)ひとりで昇るのは初めてだった。
用心棒なしだと、なんだか急ぎ足になってしまって楽しさが半分になったような
気分だ。
つまらないなあ、やっぱり一緒がいいよ。



足下には深い谷が口を開けている。
山肌を削って作られた道は雑草や篠竹、クマザザで被われていた。
幻の別荘地、紙の上で分割(分筆)し銀行融資の抵当に使われた土地なのだから
もとより訪れる人もいない。もうじき雪に埋もれるからもっと人をよせつけなくなる。
歩いているうちに一人にも慣れて、気分もよくなった。
樹々のなかは気持ちがいい。
心が洗われるってこういう感じ? なんてな。

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持続可能な共存関係

2009-11-09 11:41:09 | Weblog
そしてこうなりました、ふたり、いや二匹。

シマコはカメラを向けたとたんに大あくびしたので口が中途半端に開いてる。
この場所は親分専用だったのに、とうとうシマコは侵入成功し、昨日などは
親分が遠慮して端っこに寄っている。
吠えもせずうなりもせず、ぼーっと見る。そして端っこに座る。
これが我が家系の性分というかやり方というか、それでいいのだ~ジャンジャンジャカジャカ
赤塚不二夫の世界である。

一つ屋根の下で一緒に育った犬猫ならよくあることだけど、なにせシマコはノブセリのシマと
異名をとる猫(そうか?)であるからして、シチーボーイの親分と共存するのは感激感動もの。
そこいくとアフガンに爆弾落とすしか脳のないアングロサクソンは馬鹿者である。
耕作地だった土地は荒れ、たとえ休戦しても停戦しても故郷に帰っても、どうやって小麦を
作ればいいのか。水も枯れてしまった土地(日本人医師が掘ったいくつもの井戸は破壊されたなあ)。
アフガンに命の水を

趣味や行楽に休日を費やす人が多い我が国は、平和なのだろう。1000円の高速料金で東北道は毎週末
混雑するのがあたりまえになった。驚きである。小型車がバンバン走っているんだ。
紅葉狩りか、温泉か。そうだね、いいところたくさんあるよね。今が見時だよね。

しかし平和とはそれだけのことか。
癒されるぅ~という言葉が嫌いである。
戦さのない暮らしはありがたい。しみじみありがたいと思う。
しかしながら、他方で暮らしの立たない人々がわんさかいるのを横目に遊び暮らしているわけで。
それを不条理などと呼ぶのは阿呆だと思う。
それは不条理ではなく、怠慢と無責任にすぎない。
わたしも無責任で阿呆な日本人の一人であるので、こうして反省しながら書いている。
いただいた平和な一日、いっときを、大事にすごさなれば申し訳ないというものだ。


二匹の生き物に、さまざまなことを教わる。
彼らの場所を確保しつづけ、持続可能な発展を! 自らに課してこれから仕事にするべ!
非力なることを心して、祈るのみ‥‥。

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夕暮れ、自由時間

2009-11-07 16:46:45 | Weblog
帰りみち、夕陽に染まる山の端を鳥がゆくのが見えた。
車を止めて、カメラを構えた。
東京にも夕陽に染まる空はある。
けれど、ここで味わう開放感は格別だ。

この場所に帰ってくるのがあたりまえになって、でも
いつでも見れるとは限らないと以前も今も変わらず思う。
空の色は見るたびに違う。
夕陽をつかまえるのは、それはそれは根気のいることらしい。
完璧な夕陽、日没の瞬間を見たのは数えるほどしかない。

いつでもそこにあると思えば、ま、いいかって通りすぎる。
明日も夕暮れはあるから、って信じているのだ。
たしかに明日、太陽は西に沈むだろうけれど、その眼で必ず
見ることができるといえようか。
明日のことも一瞬先のこともわからない。
だから、あっという間につるべ落としのように消える赤い光を
見逃さないように。



二十代から三十代前半くらいまで夕暮れはビルの窓からたまに
見るくらいで、夕暮れの空気を味わうことはできなかった。
仕事を終えて外に出るころには、人工の明りで照らされた街路。
闇でもなく陽の光でもないところを歩いて帰った。
だから、こうして夕暮れを眺めていると今でも嬉しくなる。
夕暮れの自由時間が好きである。
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隠れ家的な‥

2009-11-05 23:29:41 | Weblog

若い人とご飯を食べに行った。
何が食べたいですか、と聞くが何でも許すよという意味にとられると困る。
ステーキとか焼き肉とか言われてもな、困る。
都合のいいことに若い人は痩せ型の草食系男子である。うん、これは食わないなと
踏んで、どこでもいいですよ、とさらに聞く。

おすすめってどこかありますか、と言うので、それならと一、二挙げてみた。
トンカツの旨い店、老舗ですよ。箸で切れるトンカツ。
ああ、そこ知ってます。先輩に連れて行ってもらったので。
そうなの、じゃあ天ぷらはどう? 天ぷら油のいいのを使ってる店あるよ。
へー、それは美味しそうですね。
うん、すごくおいしい。地元の人くらいしか知らないんじゃないかなあ、
間口の狭いジミーな店なんですけどね、味はうけあいます。
カメ先生も行かれるし、知ってる人は知ってます、おいしいってこと。
へー、そこ行きたくなった。近いですか?
すぐですよ、その先ちょっと行ったとこですから。

しばらく歩いて信号待ちしているとき、また尋ねた。
寿司もおいしいとこ、そのそばにありますよ。お魚好きでしょ? 寿司食べますか。
ああ、ああ、寿司かあ、寿司もいいなあ。いや、すみません、また今度、寿司は
今度にします。今日はそこの、その天ぷら屋さん、楽しみになってきたので。

ガラガラと引き戸を開けて店内へ入ると、あれま、がらんとして誰もいなかった。
のれんも出てるし、やってるのかな? といぶかしんでいたら奥から小さな声で
らっしゃい、と聞こえてきた。
ああ、やってるやってる、だいじょうぶだったと言いながら席につく。
誰もいないので席は選びほうだいなのだが、隅っこへふたりで異議なしで座る。

卓に置かれたお品書きを開いて、さあ、さあとすすめた。
若い人はうれしそうな顔をして、ぼく、海老天ご飯にします、ときっぱりと言った。
え、他にも何かどうですか、それだけでいいの? と聞く。
ぼく、海老が大好きなんです、海老ばっかり食べちゃいます。これ海老4本もついてるから。

注文した品がくるまでまでの間、話ははずんだ。
そして若い人が言った。
「ここ、わりにふつうですね、隠れ家みたいなとこ想像してたんで。でもいいです、ここ」
「は、カクレガ、ね‥‥」
しばし思考停止したけど、すぐにねじを巻いて応える。
「そうね、座敷だったのを改装してきれいになってるもんね、前はもっと古い店だったよ」
「そうでしょう、そんな感じ。そんな空気が残ってる」
若い人はニコニコしている。


(中央右に小さく飛行船!)

帰宅してから気づいた。
隠れ家って‥‥なんだ? ん? とひっかかっていたのが急に解けたのである。
若い人は雑誌をよく読むらしい。
雑誌の編集会議で「隠れ家的な」ってのを企画したことがあったのを思い出した。
もちろんそこに掲載した店や場所が隠れ家なわけがないのである、写真撮ってオーケーなのだから。
でも読者はなぜ、それに抗議しないのか。
それは「隠れ家」って言葉が隠れ家を指していないからである。

一時、看板をわざと出さない店というのが流行した。
一見さんを断らないのに、むしろ千客万来が目的なのに表札も出さないのである。
そしてビルの谷間の奥まった便利とは言えないでところにそれはある。なのに、
人はぞくぞくわらわらとそこを訪れるしかけとなっていた。そういえば、かつて
そういう店を創ったりしたなあ、あざとかったなあ、儲けたなあ。
遠い昔であるよ、忘れていた。
隠れ家というのに、そこで他人と集って飯を酒を喰らう。名刺なんか置いて行く。
常連になってしまう。で、ここ俺の隠れ家って感じ~とか連れの女人に言うのである。

隠れ家をみつけたい気持ちはよくわかる。
だから若い人の気持ちがわからなくもないのに、ピンと来なかったわたしは隔世の感が
あるのだ、そういう世間の流行や慣習といった類いに。
隠れ家と同義の言い方に穴場っていうのもある。
雑誌で取り上げテレビカメラが入り少しも穴場ではなくなるのに、穴場という響きは
人を誘うのに十分である。
商標の一部と化してしまって久しい隠れ家と穴場という言葉、ほんとに隠れたい人は
行かないよね。
隠れるのが生き甲斐のわたしは正真の隠れ家、穴場を仕事では決して使わなかったので
明かせよ、いつも籠ってるとこに連れてけよ、と編集者にネチネチと言われ、ツッコマレ、
冷や汗を流しながら断ったものである。アノヒト、ヒツコカッタナア。
何でもネタにしてしまったら、どこで遊べばいいんだい? ってのがわかってない。

隠れ家や穴場は誰も誘わずに行くもの。一人で、あるいは大事な人とだけこっそりと
忍んで行くところ。そういう正統な定義をしている人など街中をうろうろしないだろうな。

天ぷらは、いつものようにすっごく美味しかった。
若い人もすべてたいらげて、わたしの分も片付けてくれた。
バクバクと食べ、ふと顔をあげて言った。
「ここ、ほんと旨いんですね!」

場所、おせーませーん。(というほどのこともないところだし~)


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この素晴らしき世界!

2009-11-03 01:45:38 | Weblog
飽きることなく眺める秋、なんて美しい。

サッチモ(ルイ・アームストロング)でおなじみの歌 What a wonderful world.
今日はpaolo nutini パオロ・ヌティーニで聴きながら過ごす。
live earth 地球温暖化防止活動のチャリティーコンサートで歌っているのを観て。

「水」はどこからきたのか。どうやって生まれたのか。
水をwater,あるいはthe waters としてではなく概念としての水もある。
「これ一とは天の一にして水を生ず、天地のその初は水なり」とある。
万物の初めに水、そして、水はともなって成ると続く(先代旧事本紀)。
初め、それを知りたくて人はさまざまに探し試し、ついには宇宙へと向かう。
あるいは超深海の底の底に挑む。
初め、つまり起源を知ればすべてを手中におさめるの絵を描くからね(強欲に)

「どんぐりの種」は土に落ちて育まれるけど、その種の一番初めはどこから
どうやって生まれたの?
わかっているようでわからないことがたくさんある(うさこにはわからないことだらけ)。

地球外の惑星に水があるという。研究すると言っている。
専門家というのはどんどんとつき進むのだな。
いまここにあるけれどわからない。わからないままでは気がすまないからか?
いや、専門家だからつき進んでいるだけだろうな。
専門家が歌うたってるわけにもいかんのだろうな。

思うに、わかるってことはそれを大事にするということではないのかな。
科学でわかるってのとは違うんだ、ぜんぜん。
人体再生なんて嘘みたいなホントが行われるようになった今、わたしの考えなど
阿呆みたいなことだろうけれど、わたしは人体再生してもらいたくない人だもの。

このごろ母が「シワシワになったよ、急になってきた、このごろシワシワ」と言う。
だって母さん、もう80過ぎたもの。シワシワであたりまえでしょ、いいじゃない、
と答える。「いや、もうびっくりよ。急になってきたんだもの。このまえまでは
こんなにじゃなかったよ。会うとね、違うよ、前の母さんと」と言われる。
皺の話だからのんびりとゆらりゆらりと交わしている。
内臓がいかんのよ、取り替えんとダメになってきたと医者に言われたなんて話なら
どうだろう。
ああ、そろそろかね、だんだんに弱っていくからね、だいじょうぶ、死ねるわよ。
とか言うかもしれない。
まちがっても手術しようかとは言わないし、言っても母は病院には行かんよと
キッパリ言うだろう。切ったり貼ったり、もういいよと。
皺伸ばしに効く方法を母に伝授して少し喜ばれ、めずらしく子供の頃の話など
聞かせてもらった。おもしろかった。子どもだった自分のことはわからないから。

水のこともわからない。
酸素は作れても何もないところから水は作れない。
どんどん外へでかけていって資源採掘やら、水探しやら、お利口な人は活発である。
でも地球は水の惑星と呼ばれているんだ。写真に写った地球は青い、水の色の星だ。
あるものを大事にしないで、先へ先へどんどんと行ってしまう脳の奴隷達。
どうせなら、魂の奴隷(魂と奴隷は似合わない組み合わせだからナシで)魂の友に
なったほうが「水にともなって成る」の流れに乗っていけるのに。

それにしても、いい声だ、パオロ。この素晴らしき世界、愛しい世界。
あたたかい湿り気のある声、しゃがれた低音までもみずみずしくてやさしい。


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サロン・ド・ソーフー

2009-11-01 00:04:58 | Weblog
サンシュウという木に赤い大粒の実がつくことを知った。
春にいただいて移植したとき黄色い花をつけていたが、まだ若い木である。
今年、赤い実がついていたかどうか気にもとめていなかったのだが、急に
大事に思えてきてしまって、ゲンキンなようで申し訳ないここちである。
なんだか、うちの子才能あるんだって、と襖の陰でささやく親の気持ちである。

「心が大事、大事、魂を込めて、って言うなあ、よく聞くなあ。
でもそれって言わぬがなんとかで、形に込めるってことだから
形を示さねばなんにもならない、って言う。
すると、だからですね、形だけじゃ儀礼とかのギがついてしまうから心が大事、って
また言うんだな、これが。
この繰り返しでこの応酬で、振り出しに戻ってしまう。
ちっとも進まないままに、魂も心もどこにあるのか定かでないけど、確かにあるような
気がしてるんだから、それが困るのよね。

ないないない、それはない。
心がって言い出したときにもうそこには「無い」ってことだけは
はっきりしてるよな気がします、ね、わたくし(今日はわたくしって言っちゃう)

形というのは意外に難しく、パッとできませんね。
形は面の上に立っていくものなので、パッとは立たないね。
順順にあっち支えこっち支えしながら立っていくもので、あちらを立てればこちらが
立たずってのも乗り越えたところに形ができて両端がきれいにそろったらようやく
出来上がり。これがパッとはいくわけないから、形あるところにおのずと心ありって
ことかしら。無作法はだからもうハナからダメってこと。

あたいなんか、いや、わたくしなんかぶきっちょのうえにぶさいくでぶさほうと心得
てますけんね。おずおずお辞儀してしばらくはおつむをあげないでおくようにします。
おつむあげるのを忘れたわけじゃないんですよ、1、2、3、4、5、4、3、2、1
って数えてるうち、他のこと思いついたりしてはいますけど。
勇気をふるったり、はりきったりできません、おずおずです。
そういう自分を好きではないです、嫌いです、でもぶきっちょですからね、嘘もダメだし。

まあこれを理屈でいえば義とか仁とか智とかになっていくんでしょうけど、
あたいの場合は、もうダメと知ってますから、おずおずとやるんですね。
おずおずとでも、世間ではパパパパッとやってるように見えたりしますから。
心って見えませんから。
いつもそっとしずかにおずおずです、それで乗り遅れてるかもしれませんけどね。

心がいつも誰にも見えないかというと、そうではない。醜いと見えますね。
醜さと悪意だけは誰の眼にも、はっきりと映っています。変でしょ。
いえ、バレてない? それはバレてないんじゃなくて、一致しているだけです。
一致すれば見逃すように脳が判断してくれてます、事挙げされないってことです。
だけど気が変わったときには、脳は利害の判断を開始しますからちょっと困るかな。
そういうことがたくさんあって、心って一口に言ってしまったりするのは、
遠慮したい気がする。

木や花を撮ると、見えてない心が切り取れたみたいで、うれしい。
ほっとして、心のありかがちゃんとわかっている安心感って言うんでしょうかね。
ディティールなんですね、人生の。」
(うさこ談/聞き手黒犬 場所 サロン・ド・ソーフーにて)
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