心の風景

晴耕雨読を夢見る初老の雑記帳

人の心を繋ぐもの

2011-06-12 09:54:42 | Weblog
 地植えをして10日ほど経ったでしょうか。今朝、蓮を植えた鉢を覗いてみると、水面に小さな丸い葉っぱが浮かんで見えました。1枚、2枚、3枚、そしてあとに続く幼芽が3つ。我が家にようこそおいでくださいました。

 ところで、広島から帰る新幹線の中で、発売されたばかりの新潮文庫「広島学」(岩中祥史著)を読みました。原爆のことを除いて広島の地理・歴史・文化を掴みかねていた私ですが、時間を忘れて一気に読んでしまいました。県民性、原爆ドーム、お好み焼き、ヤクザ、チンチン電車、赤ヘル軍団、酒、海軍のまち呉、.....。筆者の「あとがき」ではありませんが、なんとなく広島が好きになっていく自分に気づきました。岩中さんは他に「札幌学」「博多学」を著しています。

 読み終えて、ふと思ったことがあります。地域に根差した文化、県民性って、最近薄くなってはいないでしょうか。地元の商店街が廃れ、全国チェーン店が幅を利かせています。田舎に帰っても、昔のように純粋な方言は聞けなくなりました。テレビ世代の子供たちの会話は、アクセントを別にすれば標準語に近いし、都市部でも大阪弁や京言葉が自然に使える人は限られています。昔なら大都市でしかありえなかった残忍な犯罪が、いまや全国いたるところで起きています。人と人との関係性が気づかないうちに綻びてきてはいないか。「広島学」では、古い時代の安芸門徒と呼ばれる浄土真宗に触れている個所がありますが、宗教性に乏しい今日の日本にあって、人の心を支えてきた倫理観のようなものが揺れ動いてはいないか。NHKラジオ講座「社会福祉セミナー」のテキストにあった「無縁社会」という言葉に、なにかしら時代の根源的な問題が凝縮されているような気がして、なんとなく落ち着きません。

 話は少し飛躍するかもしれませんが、きのうの朝日新聞土曜版「be on Saturday」に『童謡はなぜ消えたのか~加藤省吾作詞・海沼実作曲「みかんの花咲く丘」』という記事がありました。終戦から10年後「新しい子供の歌」運動が起きて、童謡は「廃頽した感傷趣味、営利目的」と批判されたようです。やり玉にあがったのが、「みかんの花咲く丘」で、その後童謡は徐々に影を潜め、代わって「月光仮面」「少年探偵団」「怪傑ハリマオ」の歌などが登場したとあります。まさに、私の子供時代に繋がっていきます。
 記事中、海沼さんのお孫さんに当たる方が、大事な問題提起をしています。東日本大震災の被災者の口から童謡が歌われたことを挙げ、「童謡は離乳食のようなもの。生きようとするときに立ちかえる歌です。日本人の血に流れている文化と言ってもいい」と。「子どものときに味わうべきものを味わわないで大人になる子が増えている」とも。
 街の図書館の一画で「童謡を歌う会」に出くわしたことがあります。高齢の方々が古き良き時代に思いを馳せながら歌っておられる姿を垣間見たことがあります。これを単なる懐古趣味と断じることができるのかどうか。機能性、効率性、快適性を求めるあまり、古いものを大事にする心を、私たちはどこかに置き忘れてしまった。大震災を機に、いまいちど時の歩み方を考え直してみてはどうでしょう。妙な理屈を捏ねまわすのではなく、美しいものを美しいと素直に言える社会に、いまいちど立ち返ってみるのも、決して無駄ではないでしょう。詩人・金子みすゞが再評価されているのも、決して偶然とは思えません。
 そう、6年も前のことですが、仙台市の駅構内で、松島行きの列車を待っているとき、伝統芸能の太鼓の演奏に出会いました。若者たちが揃いの法被を着て熱演していましたが、その強烈な音が身体の隅々に快く響き渡る快感を楽しんだものでした。東京一極集中なんてよく言いますが、実際のところ、集中している中身とはどれほどのものか......。

 さあて、梅雨の合間の日曜日、きょうは久しぶりに孫君がやってくるそうです。タマネギの収穫でも手伝ってもらいましょうか。
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