「お父さんって、なんでそんなに京都が好きなのん」。京都に向かう電車の中で、ふいに家内が語りかけました。改まって聞かれると一瞬返答に困りますが、考えてみれば田舎を出て初めて大きな都会で生活した最初の場所が京都であったこと。18歳までの人生とその後の人生の分岐点、それが京都であったこと。だから、それを境に、右と左は全くもって不連続であって、異質であって、心も価値観も大きく異なっていて、私自身を判りづらいものにしていること、などがぼんやりと浮かんできます。
その日は私の63回目の誕生日でした。「大文字五山送り火」見物の名目での上洛でもありました。せっかく出かけるのだからと、まずは京都御所の横にある新島襄旧宅に向かいました。が、残念ながらお盆休みで休館でした。その足で蛤御門に向かいました。1864年、この門のあたりで会津・薩摩・桑名藩と長州藩との間で激戦が繰り広げられた「禁門の変(蛤御門の変)」の場所です。「八重の桜」では、大砲が登場しましたが、案内板には「門の梁にはその時の鉄砲の弾傷らしき跡が残っている」とありました。平和な時代には信じられない昔の出来事です。
そういえば、蛤御門の近くに足腰の守護神として知られ境内の狛猪に因み「いのしし神社」とも呼ばれ親しまれている護王神社があります。その境内に、それは大きなカリンの木が立っているのを見つけました。府民の誇りの木という名札が飾ってありました。
近くの小さな喫茶店でひと息ついてから、「次はどこに行こうか」。いつもどおり、行き当たりばったりの珍道中ですが、お店にあった地図で見つけた鈴虫寺(妙徳山華厳寺)に向かうことにしました。年中鈴虫の音色が美しい臨済宗の禅寺です。午後4時半の閉門に間に合うように移動です。が、門の前には百人近い行列でした。30分ほど待って、やっと大広間に通され、お茶と和菓子をいただきながら40分ばかり鈴虫説法を拝聴しました。この日の気温は36度、鈴虫のいる大広間の室温は25度でした。
最寄駅の松尾駅からひと駅先にあるのが阪急嵐山駅です。夕方の中之島公園は「嵐山灯篭流し」で、これまた大勢の人でいっぱいでした。受付で水塔婆や灯篭に亡き両親、兄の戒名・施主名を書いていただき、供養のあと灯篭流しとなります。あたりが薄暗くなる7時頃、灯篭流しが始まりました。遠くの山々にぼんやりと送り火を確認できる頃、四条河原町に移動して、冷たいビールをいただきながら少し遅めの夕食を味わいました。
ところで、移動中の電車の中で、玉岡かおる著「銀のみち一条」下巻を読み終えました。私にしては珍しく「近代化前夜の生野銀山で、三人の女が愛した一人の坑夫。恋に泣き夢破れてもなお、導かれる再生への道。感動と涙の大河ロマン」(新刊文庫紹介文)といった小説全二巻を読んだことになります。
興味深い言葉に出会いました。「直利」(なおり)です。「鉱山では、求める銀が思うように出なくなれば、彼らは思案のすえに掘る筋を変える」「それまでどれだけ大量に産出していた筋であっても、いったん直ると決めれば後悔しない、振り返らない。その潔さがなければ、いつまでも枯れた鉱脈に縛られて、まるで方向違いな地底に向けてずぶずぶ沈んでしまう」。
広辞苑を調べてみると、なおり【直り】という言葉があります。「病気がなおること。乗物・観覧席などで、上級の席に移ること。 鉱床の中で、特に品位の高い部分。富鉱体」。「直利」は身体ひとつで地の底から鉱石を運び出すことを生業とする坑夫たちにとっては特別な意味があったのでしょう。
私は今年63回目の夏を迎えました。リタイアまで残すところあと1年です。大学を出て、就職して、同じ会社に40数年も勤めています。ひょっとしたら、私にとっての「鉱脈」が枯れてしまっていることに気づいていないのかもしれない。それに気づくことが怖いから、次から次へと新しいテーマ、課題を見つけては手を打とうとする。でも、事の本質まで変えているわけではない。
薄暗い水面をゆっくりとながれていく灯篭を追いながら、「直利」という言葉の意味を思いました。そろそろ、私にとっての「鉱脈」を見つけるために、ここでいったん筋を変える時期に来ているのかもしれません。坑夫は長年の経験、勘で「直利」を見定めてきた。この世に生を受けて63年もたてば、私にだって「直利」はできる、かも。周囲に急かされるように生きてきた自分が、ここに来てやっと思い通りの時間を取り戻すことができる、できるかもしれない。そんな思いが浮んでは消えていきました。