今朝、ゴンタ爺さんとお散歩にでかけたら、近くの池に舞い降りたアオサギをカラスが追っかけている場面に遭遇しました。明らかにアオサギの方が体格が大きいのに、カラスも必死で追い払おうとしています。仲良くすれば住みよいだろうにと思いながら、これも厳しい生存競争なんでしょう。野鳥たちも必死で寒い冬と闘っています。
仕事始めの一週間も、あっという間に終わりました。そんな週末、帰宅途中に「えべっさん」が始まった近くの神社に立ち寄りました。夜も遅い時間でしたから、参拝客はまばらでしたが、ここ大阪は今、商売繁盛の戎祭で賑わっています。9日が宵戎、10日が本戎、そしてきょう11日は残戎です。 30数年前、私は職場に近いこの神社のすぐ隣に住んでいました。朝から晩までスピーカーから大音量で商売繁盛の掛け声が流れる、それはそれは賑やかなお祭りでした。たくさんの出店が立ち並び、子供たちを連れて行ったものでした。
さて、今週のクラシックプレミアムは、27巻「モーツァルト(4)5大オペラ名曲集」でした。「フィガロの結婚」「ドン・ジョバンニ」「魔笛」などの名場面を聴きながら、さてさて、きょうのブログ更新のテーマは何にしようかと.....。 まずは朝日新聞土曜紙面「be」。「マエストロ、節目の年に挑む」と題して小澤征爾さんがクローズアップされていました。今夏には80歳をお迎えになりますが、数年前に体調を崩しながら不死鳥のように復活した小澤さん、23回を数えるサイトウ・キネン・オーケストラは、今年から「セイジ・オザワ松本フェスティバル」に名前を変えます。
この記事を読んで、「サイトウ・キネン・オーケストラ2014」を録画していたことを思い出しました。きのうの昼下がり、お元気になられたお姿に安堵しつつ、ベルリオーズの幻想交響曲を楽しみました。指揮者によってオケの響きがこうも違うものなのかと。小澤さんは中国・奉天に生まれ、翌年、北京に転居して5歳まで中国でお暮らしになったのだとか。念願の中国公演が実現する日もそう遠くはないのでしょう。 きのうは夜、年末に録画していたNHKテレビ「戦後史証言~日本人は何をめざしてきたのか」も視聴しました。第3回「民主主義を求めて~政治学者・丸山眞男」です。日本の超国家主義を分析し「無責任の体系」を説いた丸山眞男の生き様を紹介したものでした。学生の頃、丸山眞男の愛弟子と言われる脇圭平先生に、私は時代を見つめる視点を学んだような気がします。
今では開くこともなくなりましたが、目の前の本棚には、丸山眞男の「現代政治の思想と行動」と「日本の思想」(岩波新書)が、脇圭平先生の「知識人と政治」「フルトヴェングラー」(岩波新書)、訳「マックス・ヴェーバー 職業としての政治」(岩波文庫)と共に鎮座しています。難しい学理は横に置いて、これらの本が目の前に「ある」ことに意味がある、そんな空間に身を置く時間を大切にしています。 「戦後史証言」で、私は丸山眞男の肉声に触れました。丸山は戦時中、広島・宇品で軍務についている時に原爆に遭遇します。目に見えない力で日本が戦争一色になっていく時代を自らの経験を交えて読み解いていきました。
戦争責任の所在が曖昧になっているという歴史認識は、奇しくも昨秋、村上春樹が毎日新聞のインタビューに答えた「自己責任の回避」、皆が戦争の被害者になってしまい誰も責任を取っていないという視点と軌を一にするものがあります。村上は、それを福島第一原発事故にも適用しています。
「無責任の体系」「自己責任の回避」。戦後70年を経て、今年は、戦争と平和について、そこに横たわる曖昧さ、脆弱性について考える1年になるような予感がしています。それは同時に、現実の社会で、政党と政党の間、組織と組織の間、あるいは企業組織の経営と事業部との間で、互いに相手の非を指摘しながら、結局は誰も責任を取ろうとしないことに対する警鐘にもなります。 と、まあ、あまり難しいことを考えると頭が痛くなりますから、これぐらいにしておきましょう。きょうは残戎(のこりえびす)。音楽に戯れ、書物に埋もれて、長かった年末年始休暇の残福のような3連休を楽しく過ごすことにいたしましょう。