今週も、野暮用に振り回された一週間でした。そんな土曜休日の夜長、久しぶりに舘野泉さんの「風のしるし~左手のためのピアノ作品集」を、ずいぶんな音量で聴いています。その舘野さん、来月10日に79歳をお迎えになるのだそうです。
ところで、秋もだいぶ深まってきましたが、十数年前に湖北の山小屋からもって帰ったアケビの苗木に、ことし初めて実がなりました。つい数週間前までみどり色をしていたのに、肌寒くなると急に大きくなって、アケビ独特の色づきになりました。次の日曜日には真ん中が割れて食べ頃だろうとおおいに期待をしていました。ところが、なんと、なんと。今朝覗いてみると、野鳥たちに食べられていました。残念!!先週カメラに収めていたのがせめてもの慰めです。
そんな朝、部屋の掃除をしていたとき、本棚にあった岩波新書「フルトヴェングラー」(脇圭平・芦津丈夫著)に目がとまりました。いったん掃除機のスイッチを切って、恩師の著書を久しぶりに手にとってぱらぱらめくります。その第三章は、丸山真男、脇圭平、芦津丈夫の鼎談「フルトベングラーをめぐって~音楽・人間・精神の位相」です。その出だしで丸山真男は「音と言葉以上に音楽には音の言葉がある」と言い、「音楽は時間芸術であって、時間とともに展開しながら音楽が音楽の語法で語り続けるという点がほかの芸術と違う」と。さらに「およそ音楽家の思想を言葉で表現することに内在するディレンマがある」とも。
妙な余韻を引きずっていましたが、この時間になって思い出したのが、小林秀雄の「美を求める心」です。小林は「絵は、眼で見て楽しむものだ。音楽は、耳で聴いて感動するものだ。頭で解るとか解らないとか言うべき筋のものではありますまい」。しかし「見ることも聴くことも、考えることと同じように、難しい、努力を要する仕事なのです」と言います。なかなか難しい議論ですが、今はただただ聴くのみ。その先に、なにかが閃くのだろうと思っています。
本と言えば、先日の3連休の最終日、四天王寺秋の大古本祭りに行ってきました。今回は、なかなか見ごたえがありました。そこで手にしたのが新編「柳田國男全集」(筑摩書房:全12巻)でした。1冊1500円で発売されていた全集が全12巻で2500円。最近、文庫本になっていますからお値段が急落したのでしょうか。四六判の全集はお買い得でした。
さっそく、第1巻に収録されている「山の人生」を読み始めました。この作品は、小林秀雄講演集でも取り上げられていますが、炭焼きの男が炭が売れず子に食事を与えることができず殺してしまう怖いお話から始まります。発狂して山の奥に逃げ込んでしまった人のこと、人さらい、子取り、山の天狗、旅僧に化けた狸の話など、100年も前には津々浦々で信じられていた言い伝えを集めたお話です。「遠野物語」もそうですが、柳田は、こうした言い伝えを比較検証しながら民族学という新しい分野を切り開いていったのでしょう。
柳田は「何が故に今なお我々の村の生活に、こんな風習が残っていたのかを説明することすらもできなくなろうとしている。それが自分のこの書物を書いてみたくなった理由」だと言います。私にとってはその昔、幕末生まれの近所のお爺さんから聞いた怖いお話に近いものがあります。能の世界とも通じるものがあります。秋の夜長、仕事のことは忘れてこんな本を眺めるのも良し。
古本祭りでは、このほか、小泉八雲「怪談・骨董他」、伴忠康「適塾をめぐる人々」、別冊歴史読本「幕末維新考証総覧」、田中公明「曼荼羅イコロジー」、梅原猛著作集「法然の哀しみ」などなど、両手にいっぱいの古本を下げて帰りました。というわけで今回は、天神さんの古本祭りに立ち寄らずに直帰でした。そうそう、境内で職場の方とばったり。彼とは、コンサート会場やら古本祭りやら、ほんとうによく出会います。
今回で六度目の四天王寺ですが、帰りに中央伽藍に詣で、救世観世音菩薩や阿弥陀如来尊像などを拝観させていただきました。いまから1400年前の593年、聖徳太子が建立した日本仏法最初の官寺で、高野山よりも200年ほど歴史が古いのだとか。幾度となく遭遇した戦火天災を経て今日があります。あいにく五重塔は工事中でしたが、金堂、講堂、礼讃堂などを見せていただきました。この四天王寺さんにもお大師さんがいらっしゃったようで、大師堂があります。京都の東寺と同じく、毎月21日は「お大師さん」と呼ばれ、境内に露店が並び、たくさんの参詣があるのだそうです。