心の風景

晴耕雨読を夢見る初老の雑記帳

老いを愉しむ

2017-03-03 21:40:20 | 歩く

 旧暦では、草木が芽吹き始めるこの時季を、二節気「雨水」第六候「草木萌動」(そうもくほうどうす)と言いますが、我が家の庭でもライラックやカリンが芽吹き、アケビの蔓の先にはもう幼い花芽が顔を覗かせています。あと半月もすれば、もっと風景が変わるだろうと思うと、私の心も弾みます。きょう3月3日はお雛祭り。我が家で祝ったのは何年前だったことか。それでもこの時季になると、家内手づくりのお雛様がお目見えです。
 そんな明るい春の陽光につつまれた日曜日、電鉄会社主催のハイキングに参加してきました。JR西大路駅の近くにある唐崎西寺公園を出発して、羅生門跡→東寺→梅小路公園→島原大門→壬生寺→大極殿遣址道→大将軍八神社→平野神社→北野天満宮→首途八幡宮→白峯神宮→京都御所と歩いて鴨川河川敷にゴール。およそ13キロの道のりでした。途中、壬生寺にお参りしたり、北野天満宮の梅花を愛でたり。京の街角で茅葺屋根のお家を発見したりもしました。みんな思い思いに自分の足で歩く楽しいハイキングでした。あまりにも気持ちが良かったので、さらに三条大橋まで歩き、結局15キロほど歩いたことになります。
 ところで、昨秋から通い始めたカレッジも今月で前期が終わろうとしています。2月は「能楽入門」「能面の歴史と表情」「大阪が生んだ文学者たち」「水辺の中世史」「健康」など盛りだくさん。今週は「狂言入門」と「雅楽」と続きました。篳篥、龍笛、笙の実演もあり、なかでも笙の音色の美しさに聞き惚れました。
 これまで断片的に眺めてきた日本の芸能を、若干の専門性を交えて大学の先生から体系的に教えていただきました。先生からは著書のご紹介もいただき、ときどきクラス会という名の呑み会もあって(笑)、なんとも楽しい学びの場になっています。今月は家内を誘ってお能と雅楽の鑑賞に出かけようと思っています。
 その一方で、ヘンリー・D・ソローに対する関心も深まるばかりです。これまでつまみ食いをしてきた「森の生活」も最初からきちんと再読です。アマゾンから届いたばかりの「ウォーキング」は、なんとも詩的な文体で、数頁読んではその風景を思い浮かべたり考え込んだりしながら、硬直した脳ミソを解きほぐしていきます。ソローの言うところの「野生」への回帰なのかもしれません。少し拾い読みをしてみると、

〇私は人生において「歩く」とか「散歩」の術を理解している人にはほんのひとりかふたりしか出会ったことがありません。こういう人はいわばさすらう才能をもっているのでした。
〇一日に少なくとも四時間、ふつうは四時間以上、森を通り丘や草原を越え、世間の約束ごとから完全に解放されて歩きまわることなしには、自分の健康と精神を保つことができない、と私は思っています。
〇どちらへ歩いていこうか決めるのがかなり難しいときがあるのですが、なぜでしょうか。「自然」の中には微妙な磁力があると私は思っています。知らず知らずそれに従うなら、ふさわしい方向に導いてくれるでしょう。
 ウォールデン湖畔に「幅10フィート、奥行き15フィート、柱の高さ8フィート」の家をつくり、2年間にわたって自給自足生活をしたソローを、私は当初、変人、世捨て人のように受け止めたこともありました。でも、よく読んでいくと決してそうではありません。人間の生きざまを極めて冷静に見つめています。モノが溢れた時代に、ある種の警鐘を鳴らしています。生きることの本質を示唆しています。時代の流れに踊らされることなく、ひとつひとつの言葉を噛みしめていく。今の私にとって「歩く」ことは「生きる」ことでもあるような気がします。
 私が長い間拘り続けている南方熊楠とグレン・グールドとソローの接点を見出したことも収穫でした。お二人ともソローの「森の生活」に少なからず影響を受けていることが分かりました。もうひとつの共通項が、鴨長明の「方丈記」です。一人は生物学者であり民族学者でもあります。もう一人は稀有なピアニストです。私は、そこに弘法大師空海を加えたいところですが、それは独りよがりなのかもしれません。

追記
 3月3日は「耳の日」でもあります。きょうは、先日受けた特定健診で聴力検査に黄色信号がついたので、近くの大学病院に行ってきました。ついでにちょっと気になっていた眼科の精密検査も受けてきました。結果は加齢によるものでしたが、白内障(初期)のお土産をいただいて帰りました。まだまだ元気ですが、老いは少しずつ進んでいます。でも、命果てるまでの間に、もう少し老いを愉しみたいと思っていますよ(笑)。

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