加藤陽子さんという東大教授の方が、栄光学園での5日間の日本近代史の講義をまとめた本です。
大学教授をしている高校の同窓生に勧められました。
高校生相手の講義なので平易な言葉で語られていますが、その内容はかなりトリビアなもので、栄光学園の生徒さん、賢いです。
歴史って、例えば「普通選挙の実施」とか「日英同盟」とか「不平等条約の解消」とか、過去の事実として学んだことが多いじゃないですか。
でも、なぜ . . . 本文を読む
新聞にこんな記事が載っていました。
『奈良県明日香村の牽牛子塚(けんごしづか)古墳で、墳丘を八角形に囲む凝灰岩の石敷きが発掘され、八角形墳と確認された。9日発表した村教委によると、石造埋葬施設の周りに巨大な切り石を立て並べ、墳丘表面も石で覆った特異な石造の古墳とみられる。
八角形の墳丘は飛鳥時代の天皇陵の特徴で、天智、天武両天皇の母で、大規模土木工事を好んだとされる斉明天皇が被葬者であることが確定 . . . 本文を読む
「先の大戦」と言っても、もうピンと来なくなりました。
私自身、「アムロ・レイがジオン公国の赤い彗星シャア・アズナブルと戦った、あの戦争のことですか?」と思ってしまいます。
戦後65年、過去が歴史になりつつあります。
私が子供の頃は、大東亜戦争は紛れもなく過去でした。
上野公園には傷痍軍人の物乞いがいて、少年向けの雑誌には「ゼロ戦レッド」とか「紫電改のタカ」とか戦記漫画が連載されていました。
6 . . . 本文を読む
11月10日の新聞各紙が、奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡の調査地で3世紀前半から中頃の大型建物跡が出土したと報じていました。
それが事実なら、正に女王卑弥呼の時代の遺跡ということになります。
この地は古代からご神体として信仰を集めてきた三輪山を南東に望み、南に「卑弥呼の墓」との説がある箸墓(はしはか)古墳が、西には勝山古墳や矢塚古墳など最初期の古墳群が点在します。
今回発掘された直径約32セ . . . 本文を読む
久々の歴史ネタです。
29日の読売新聞の社会面に、「箸墓(はしはか)は卑弥呼の墓だった」というセンセーショナルな見出しがありました。
「邪馬台国はどこにあったか。」は、古代史ファンにとっては永遠のミステリーであったわけで、それがこんなに簡単に終わりになってしまうわけ?
「『卑弥呼の墓』との説がある箸墓古墳(奈良県桜井市)について、国立歴史民俗博物館の研究グループが古墳の周囲から出土した土器の放射 . . . 本文を読む
「昭和の日」っていうよりも、自分位の歳の人にとっては、4月29日は「天皇誕生日」ですよね。
激動の昭和を、63年の長きにわたってお治めされた昭和天皇が亡くなられてはや20年、その今、2000年にわたって継続してきた皇室は、断絶の危機にあります。
現存する皇太子家、秋篠宮、常陸宮、三笠宮、桂宮、高円宮のうち、お世継ぎがいるのは秋篠宮のみ、それも1歳の悠仁さまお一人のみ。
高円宮家は既にご当主が他界 . . . 本文を読む
友人のぱんくろうさんのリクエストにより、昨日の話をもう少し深堀りしてみたいと思います。
多部未華子と言えば「鹿男あをによし」、鹿男と言えば、「サンカク」。
「きつねの使い番」柴本幸から、「鹿の運び番」玉木宏経由「鹿の使い番」多部未華子に渡り、富士山噴火を回避するための「しずめの儀式」に使われるはずだったのに、ねずみから情報を得た児玉清に奪われてしまった、通称「サンカク」=三角縁神獣鏡(さんかくぶ . . . 本文を読む
本日の読売新聞の社会面に、日本考古学協会など16学会による奈良市の五社神(ごせし)古墳、伝神功皇后稜の立ち入り調査が行われたという、小さな記事が載っていました。
陵墓の立ち入り調査、昨年の一月にやっと宮内庁が条件付ゴーサインを出したものですが、ついに実現しました。
それにしても「神功皇后稜」、そう来たか、やっぱりいきなり天皇陵とはいかなかったわけねー。
でも、まあ、天皇陵をはずすのであれば、「箸墓 . . . 本文を読む
ジョギングをしてて、たまたま見つけた江古田原古戦場跡の碑。
太田道灌と豊島泰経が激戦を広げた土地ということで、江古田公園の片隅に大きな碑が建てられていました。
太田道灌と言えば江戸城を築城したことで有名な室町時代の武将です。
豊島氏は、今で言えば練馬区や北区を拠点に、武蔵野で勢力を誇った地方豪族。
太田道灌は関東管領扇谷上杉家の家宰で、いわば室町幕府方。主筋の上杉氏の有力家臣・長尾景春による反乱 . . . 本文を読む
今日の読売新聞の一面に「蘇我氏邸要塞化」という記事が出ていました。
『大化改新=乙巳(いっし)の変、645年=で、中大兄皇子(後の天智天皇)らに滅ぼされた飛鳥時代の大豪族、蘇我氏の邸宅があったとされる奈良県明日香村の甘樫丘東麓(あまかしのおか・とうろく)遺跡で、7世紀前半の大規模な石垣と塀の跡が見つかったと、奈良文化財研究所が1日、発表した。』
『蘇我入鹿(いるか)らが城柵を巡らせていたことを描 . . . 本文を読む