林檎乃「とほほ・・・。」ブログ

林檎乃麗の「とほほ・・・。」な日常を綴っています。 

2012年越中の旅6.

2012-06-26 | 鉄道・旅行
 6.富山アクセスの3つのルート-“ひだ”編

首都圏から鉄道で富山にアクセスする3つの方法のうち、
行きは一番オーソドックスな上越新幹線+「はくたか」のルートを使ったが、
帰りは別ルートで帰ることとし、高山本線で名古屋にアクセスすることにした。
高山本線は越中八尾から猪谷、ここで折り返して富山までは乗ったことがあるけれど、
その先はまだ未乗車で、“乗り潰し”の意味合いも兼ねて、
特急「ひだ」+東海道新幹線のルートを選択することにした。
アパホテル富山駅前をチェックアウトして富山地鉄市内線の富山駅前電停に行き、
環状線の専用車両9000形のうち、昨日撮影出来なかった9002号車を狙う。
しかし充当している車両は昨日と同じ9001号車と9003号車だった。
今回は縁がなかったようだ。
富山駅に幕張までの乗車券で入場する。



既に特急「ひだ」に充当されるキハ85系はホームに停車していた。
指定席で取った座席に荷物を置いて車両取材する。
この段階で出発まであと15分。
北越急行所属の683系8000番台が入線するのを知ってホームを渡ってこれを撮影する。
売店で朝食用の駅弁を買って5分前くらいに漸くキハ85に乗車する。



特急「ひた6号」は08:00に富山駅を発車する。



高山本線は非電化路線のため、気動車特急が充当されている。
北海道や四国では気動車の特急に乗ったことがあるが、本州では初めてかもしれない。
この「ひだ6号」は富山から名古屋までを結んでいるが、
今回は高山本線の駅取材もひとつくらいはしたいと思い、美濃太田までの切符にした。
どちらかというと山の中を突っ切る形の高山本線だが、
ここまで来ると平坦な土地になってくる。
美濃太田には11:18に到着予定になっていたが、3分遅れで到着した。
この時はまだこの3分の遅れは大して気にしていなかった。
しかし後々この遅れの原因に大きく飲み込まれることになるのだ…。
美濃太田は長良川鉄道も乗り入れていて、偶然停車中のナガラ300形303号車を取材する。
改札を出て駅舎の取材などする。
駅前ロータリーには坪内逍遙の銅像が建っており、そこには略歴が書かれていた。



     坪内逍遙略歴

  逍遙こと、坪内雄蔵(幼名)は安政六年五月二十二日(一八五九年)
 美濃国加茂郡大田村(現美濃加茂市太田本町太田小学校西北端)の
 尾張藩代官屋敷で父坪内平右衛門(後に平之進と改む)と母ミナの子として生まれた。
 折しも幕末維新の風雲急を告げ、中山道は人馬の往来激しく、
 陣内での父母の養育、手習を受け成長した。
 明治九年(一八七六年)県選抜生として上京、開成学校(現東京大学)に入学、
 十六年同校文学部本科を卒業するや東京専門学校(早大前身)の講師(後に教授)となり、
 教鞭のかたわら『当世書生気質』『小説神髄』を著して明治新文壇の先達となった。
 又逍遙は文人にとどまらず、文芸運動を指導し、演劇、新国民劇の創造改善にも心血をそそぎ、
 明治三十二年には文学博士の学位を受け、小学校国語読本全八巻などを刊行。
 かくして明治、大正、昭和の三代にわたる我が国文化の偉大な教導者として仰がれた。
 晩年の逍遙は熱海に双柿舎を開き住み宿願の『シェークスピヤ全集』の翻訳を完成、
 昭和十年(一九三五年)二月二十八日、七十七才の天寿を全うした。
 早稲田大学葬がおこなわれ、墓は熱海の海蔵寺にある。
 資産はすべて寄付され、数々の偉業は早稲田大学記念博物館に納められた。
 逍遙が最後にここ誕生の地を訪れたのは大正八年(一九一九年)の晩春。
 婦人セイを伴い、木曽川の清流にたたずみ、
 虚空蔵の大椋をなでて懐旧の情にむせんだ郷土が生んだ偉大な人物である。
  この偉業を顕彰するため、逍遙誕生百三十年に併せ、
 美濃加茂ライオンズクラブ結成三十周年記念事業として建立するものである。

美濃太田駅で約30分の取材を終了し、ここからは普通列車で岐阜まで行く。
キハ11系2両編成で36分、12:32に岐阜に到着する。
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