rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

セミもきつい高温地獄

2024-07-29 16:07:29 | 生き物たち
連日、命の危険を感じる酷暑が続いている。
先ほど、15時をまわったあたりから、突然外が賑やかになった。
セミが、堰を切ったようにいっせいに鳴き出したのだ。
アブラゼミ、ミンミンゼミ、ツクツクボウシ、ニイニイゼミたちが、競い合っているみたいに。
あの不快な蚊も、今年は少ない。
35度を超える日が続くと、生存率が落ちるせいらしい。
セミにおいても、35度を越えると熱中症になる危険が増して鳴かなくなるという。
この両者からしても、35度というのはデッドラインの指標になりそうだ。
それなのに人間ときたら、35度を越えて炎天下の中、アスファルトの照り返しと蓄熱による熱射地獄の中でも、さまざまな耐暑グッズを駆使しながら活動を強いられている。
ちょっとでも活動を停止したら経済が崩壊するという、強迫観念に取り付かれているかのようだ。
そうだとしたら、なんと脆弱なシステムなのだろうか。
また、あまりにも偏ったシステムともいえるだろう。
実際、苛酷な環境で労働に従事する人たちには、その負荷に見合わない報酬が与えられている。
完璧なリスク対応の報酬というのは算定が難しいにしても、差が激しすぎるのではないか。
ましてや、この物価の高騰、税負担の激増、治安の悪化、生きるのに楽しさを見出しにくい状況が、さらに進行している。
温度のデッドラインをさらっと突破し、社会状況のデッドラインは煙に撒かれて超えているのすら気づけない現状だ。
生きながら立ち枯れる世界が、既に始まっている気がしてならない。
セミや蚊のように、葉陰で温度が下がるのを待っているということが、通用しないと思えるのだ。

ししとうに目ざめる

2024-07-22 15:10:16 | 食べ物たち
昨年から、ししとうのよさをしみじみ感じている。
ししとうは、豊産性で味に強い癖がなくて使いやすい夏野菜の代表格だとすら思っている。
野菜炒め、ナスの煮浸し、中華風炒め物など、彩を添えながら幅広く毎日食卓に上っても飽きがこない。
常備菜としてのご飯のお供を作る時にも欠かせない食材でもある。

夏野菜のご飯のお供、

【材料】 ししとう   15本
     ナス     2本
     しいたけ   4枚
     長ネギ    1本
     かつお節   小袋1パック
     ゴマ     大匙2杯
     砂糖 味噌 サラダ油 ごま油 みりん 好みで一味唐辛子
【作り方】ししとう、ナス、しいたけ、長ネギを細かく刻む
     フライパンにサラダ油をひいて、ナスとしいたけを炒めてしんなりとしてきたら、ししとう          と長ネギを加え炒め続ける
     砂糖を加えて混ぜ全体に絡んだなら、好みの味になるよう味噌とみりん、好みで一味唐辛子を加えて全体に馴染ませる
     ゴマとかつお節を加えてよく炒めながら混ぜ合わせたら、火を止めごま油をたらしてよく馴染ませて出来上がり
     容器に移して、冷まし、冷蔵庫で保存すると、1週間は日持ちする
     ※おにぎりの具としても重宝する

以前に、このブログ内に記したと思われるが、我が家において食欲の失せる酷暑を乗り切るのにお助け常備菜の一つだ。

他には、冷たくした夏野菜たっぷりのラタトゥイユも、たくさん作って食べている。

どうか、皆様にもこの厳しすぎる暑さを無事に乗り切ってくださるよう、ご自愛くださいませ。

「忘却バッテリー」とJustin Bieber & benny blanco - Lonely

2024-07-08 16:50:26 | 漫画やアニメ
Justin Bieber & benny blanco - Lonely (Official Music Video)


「忘却バッテリー」と「ジャスティン・ビーバー Lonely」どうしてこの二つを併記するのか?
それは、共に深い孤独感がある。
何かを極めようとする者には、等価交換で大切な何かを差し出さなくてはならない宿命がありそうだ。
自分が望んでそこへ赴く者、他者の働きかけで考える暇もなく押されていく者の差こそあれ、どちらも容赦ない孤独を感じなければならない。
そうなれば、精神が崩壊、または分裂したり、鈍磨することを免れないだろう。
名声や栄光、富を得られたとしても、心の安寧を手放すことになる。
何をもって至高とするかは、価値基準によるけれど、常に何かを提供し続けねければならない名声や栄光と富は、提供が止まったり、提供するものが大衆のニーズに合わなければ消失してしまうものだ。
よって提供を迫られる者は、いつも焦燥感や不安に苛まれるだろう。
自らの意思によって行動したり、楽しみ、人と分かち合い心を通じ合わせることで、安心感と幸福感が得られることが多い。
「忘却バッテリー」の登場人物は、いろいろな自分の側面を受け止めることで、他者との関わりに安定感を持ち、精神的弾力性を備えて歩みを進めることができた。
ジャスティン・ビーバーは、彼の言うところによる配偶者を得て、安心感を持つことができた。
体中をまじないの文様で埋めてみても、自分を受けれて優しい気遣いをかけてくれる人の優しさには到底及ばなかったようだ。
辛いこと、嫌なことを忘れようとして忘れたと思っても、消去はできない。
過去は消えないが、現在の工夫で中和し、性質を凌駕することはできそうだ。
過去にもこのブログに書いたけれど、「人は人によって傷つき、またしかし人によってしか癒されない」なのだろうか。

日本の北端へGO その4 旅の終わり、想いかえして

2024-06-26 11:08:22 | 漫画やアニメ

風力発電の風車が立つ丘


アカシア

早朝の雨の礼文島を後にして、フェリーで稚内へ戻る。
辛うじて見えた利尻島も遠くになるころ、船体が起こす白波を見ていると、時折波しぶきとは違う飛沫が起こるのが見えた。
その飛沫が起こるのを注意してみていると、飛沫が上がってまもなく黒っぽい何かか海面を下からなぞる様子があった。
一回だけでは眼の錯覚もあるだろうと、しばらく海面を注視する。
それは、その後も幾度となく起こり、同時に何箇所で起こることもあった。
おそらく、イルカが船に併走していたのだろう。
曇天の船旅が、ちょっと楽しくなった時間だった。
到着した稚内も、やはり重く暗い雲が垂れ込めていて肌寒い。
これから札幌へ向かって、また道路をひた走っていく。
稚内市街地を抜けると、丘陵地帯の尾根沿いに、大きな風力発電の風車が連なり立つ風景が続く。
風が強く雪が降る地域では、太陽光パネルでの発電は不向きなためだろう。
白くて大きなプロペラがゆっくり回る姿は、私の性癖に刺さる。
水が流れて時々渦を作る渓流や、はたまた二層式洗濯機の回っているところ、独楽は当たり前だが、排水溝に流れ込む水をうっかりうっとり見とれてしまう癖があるから。
また、なんとなくエヴァンゲリオンに登場しそうな使徒たちの雰囲気もあって、不気味で素敵だ。
しかし、風力発電の巨大プロペラは、その姿の優美さとは相反するデメリットもある。
風という自然の現象を利用することで、風力が安定しなく、無風では稼動せず、弱ければ発電量がおぼつかず、強すぎれば破壊されかねないので稼動を中止する必要がある。
自然界への影響として、風車の騒音、鳥がぶつかってしまうこと、あとは超低周波がある。
この中で、超低周波は、個体差はあるものの悪影響が報告されている。
人で言えば、頭痛、心拍の向上、血圧上昇、場合によっては「幻覚」を見ることがあるようだ。
主に、人が聴覚で感知できない周波数を浴び続けることで、無自覚に肉体的にストレスを受けるためなのではないか。
そういえば、一昨日に宿泊したホテルから程遠くないところに、熊が出没したとニュースで見た。
人よりより地面に近く生きる動物は、よりこの超低周波の影響を強く受けていると想像できる。
再生可能エネルギー、聞こえはいいが、メリットばかりでもないのはこれからもわかる。
エネルギー利用の効率化を開発しながら、リスク分散と、使用できなくなった発電機材の安全な処分方法(特に太陽光パネル)を早急に整備しなくてはならない。
人が便利で快適な生活を営む上での、一番の基盤である地球を汚染してしまっては、取り返しのつかない愚行となる。
それとも、人は破滅に自ら進みたいマゾならば如何ともできないけれど。
さて、話題がいささか深刻になってしまった。
旅に戻ろう。
稚内より内陸の道国道40号を南に下り、幌延町を過ぎたあたりで国道232号に入り天塩町へ向かって、留萌市まで海岸沿いの道(日本海オロロンライン)を行く。
時折右手に日本海が見え、途中の初山別村に入ると街灯に星の形があしらわれ、岬のところに初山別天文台あるのが見えた。
晴れた日の夜は、星が手に届くように見えるのだろうか。
北海道には、温泉と天文台が多い印象を受けた。
留萌から内陸に進んでいくと、アカシアの木が多く見られるようになって来た。
白い花をたくさん咲かせ、風に揺れる姿は、清楚で美しい。
休憩したパーキングエリアで、アカシアを間近で見ることができた。
花の形は、まるで藤の花のようだ。
歩道の脇には、雑草のようにフキが生え、見慣れないオレンジ色の花が咲いていた。
コウリンタンポポという外来種で、黄色のキバナコウリンタンポポも名寄で見た。
自分が子供のころにはなかったものだ。
ちかごろ、綺麗で駆除しにくいような外来種の花が、至る所で勢力を強めていると思われる。
人の心の弱いところをつく、狡猾な生存戦略だ。
実際私も、道路わきに生い茂っているハルザキヤマガラシを、ヨーロッパ的と受け入れてしまいそうだから。
そうすると、物資や人、文化の交流が進むのは、一見よいようだけれど、もちろんマイナスな要素もちゃんとあるわけで、そこを考え合わせてやっていかないといけないらしい。
旅は、非日常。
いつもとは違う環境、時間の流れ、刺激に触れることで、心の中に変化が起こる。
どこに居ても考え方次第なのはわかっていても、物理的なスイッチで強制的に思考の視点を変えるのも必要だろう。
言い訳がましいけれど、旅は、人生を豊かにしてくれる装置なのだと思う。


アカシアの花


フキとコウリンタンポポ

日本の北端へGO その3 レブンアツモリソウ

2024-06-25 15:50:31 | 旅先から
レブンアツモリソウ



レブンアツモリソウは、この島の固有植物。
一ヶ月にも満たない開花時期の終盤に間に合い、この花を見ることができた。
寒冷地を好むラン科の植物で、このレブンアツモリソウは、特定の虫でしか受粉ができないことと、その発芽から生育も時間がかなるなど幾多の条件をクリアしなければならないとかで、絶滅危惧種となっているようだ。
保護育成活動がなされているのはもちろんのこと、花を観察する時に花を揺らしたりしないなど、注意を払う必要がある。
レブンアツモリソウ群生地を後にして向かったのは、島の西北端にあるスコトン岬。
やはり霧雨と強い風が吹きつけてくる、厳しい自然環境があった。
それしか、体感できない状況だった。
また来た道を南下して、島の南の西側にある、桃のような形状の桃岩と猫の後姿のような猫岩が見える桃台猫台へと移動したが、移動した先もやはり霧雨と強い風が居座っていた。
もちろん、桃岩と猫岩を拝めることはできず、そこに咲いていた花を写真に収め、旅の記憶とする。
島を南北と移動していると、島の特徴に気がつく。
バスガイドの方の説明にもあったのだが、南半分には、ハイマツやトドマツなどの樹木が生えていても、北半分は木のないいわゆる「礼文島」の観光写真にあるようななだらかな丘陵地が続く景色になる。
明治ごろの幾度かの大火で北側の木々が消失し、川を境に南側への延焼は止まったとのこと。
その後、植林をして復活を目指すものの、北の厳しい環境では、人の努力は実を結ばなかったようだ。
「花の島 礼文島」と言われていても、そこに咲く花の植生は高山植物であり、本州などにおいて2500m付近の森林限界と同じような条件となると、植林という行為が困難を極めるということがわかる。
私が憧れた景色の背景にこのような経緯があったことを知って、今ある自然を失ってからでは元に戻すのが、どれほど困難を極めるか、元には戻らないかを考えさせられた。
たしかに、場所は遠く離れるけれども、かつてのギリシャは豊かな森が国土を覆っていたそうだが、文明の発達と共に木々は伐採され生活燃料に使われたり、土木工事に使用されたりと、ただ切り倒されていた。
彼らには、伐採と植林が対を成す考えはなかったのだろう。
そして、今のギリシャの景色が出来上がった。
話を元に戻そう。
観光バスでの周遊を終えて、宿泊するホテルは、北の久種湖(くしゅこ)にほど近く、スコトン岬と金田ノ岬にはさまれた入り江に面していた。
ホテルから歩いて浜辺に行き、貝拾いをして童心に返る。
ホテルのルームキーについていた貝殻には、綺麗な穴が開けられていて、実は人工的に開けたものではなく、この浜辺で取れる貝だけにある特徴なのだと教えてもらったのだ。
その実態は、ちょっとグロく、エゾタマキガイにツメタガイが吸い付くことによって開いた穴なのだそうだ。
うむむ、でもなんとなく可愛いからよしとして、気に入った貝を拾い集めた。
観光ポイントを巡るのも楽しいが、貝殻集めや石探しなどのシンプルで没入感のある行為は、人の記憶の原初的なところに刻み込まれるのではないだろうか。


スコトン岬


チシマフウロ


レブンシオガマ


センダイハギ


穴あき貝


ゴロタ浜



さて次回は、アカシア花盛りの北海道で締めくくろうか。