rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

写真の意味

2022-03-24 21:52:07 | 随想たち
ipodにたまりに溜まっていた写真のデータを、外部へと移動した。
このブログにあげてある写真もその中からのもので、私の記憶の一部でもある。
ほぼ写真とは、個人的記録、人生のエピソードを補強する記憶媒体であり、何に心を動かされたかの軌跡でもある。
その中でもとりわけ異質で、考え方によっては重要視されるものに、人生の節目である七五三や入学式、成人式、結婚式などに撮る写真がある。
これこそもっとも個人的な写真で、かつそれに掛ける費用と労力は飛び抜けているだろう。
それらの写真を日常的に見られるように飾る人もいるけれど、撮ってから仕舞いっ放しにしてみない人もいる。
ちなみに私は後者だ。
それならば必要ないのではないか?と思うけれども、年齢を重ねてきた今となっては、撮っておいたほうがいいと思える。
時間は戻れなく、ごく僅かな人にとってしか意味を持たない写真だけれど、だからこそその時々の大切な節目をそれなりに身なりを整えて写す写真は価値のあるものではないか。
フォトスタジオで大枚をはたかなくて工夫して撮るもよし、もちろん大勢専門スタッフに囲まれて気持ちよく撮るのもいいだろう。
今は、卒業から入学と区切りをつけて新しいステージに参加する節目の時、期待と同じくらいの不安を抱えた自分を、記録しておくものいいものだ。
自分の生きてきた足跡を、写真を通して振り返る素晴らしい素材となるのだから。
どんな経験も、自分の生きてきた証で、愛おしめるようになりたい希望もある。


実家から送る荷物、届く荷物

2022-03-06 18:01:12 | 随想たち
隔月くらいに元中くらいの人から催促のメールが届く。
「米がそろそろ無くなる できればジャムも」
そうだよ、確かにスーパーなどで買う米よりも、一枚の田んぼでとれた米の美味しさを身に沁みて感じた経験を持つ私は、米が無いならばともかくも、無碍に突き放せない。
せっせと精米に行って、ビニール袋に小分けにし5袋用意する。
んんん!?ジャムとな?
昨年は、作りすぎて次のシーズンまで持ち越すことが続いた教訓から、ジャム作りを控え目にしていた。
ところが、手作りブルーベリージャム、ラズベリージャムが当たり前となって消費に貢献しなかった2名が、一人暮らしをするようになってからというもの、ジャムをやたらと欲しがるようになったのだ。
やっと我が家のジャムが相当素晴らしいことを気づいたのか!と満足していたら、なんともう、ジャムが底をついてしまった。
仕方がない、大人でもあり親なのだからと自分に言い聞かせ、最後になった350ml瓶のラズベリージャムを米袋の間にそっと据えたのさ。

さて、実家から送られてくる荷物だが、勝手に何かを期待してしまうこと、誰にもあるだろう。
自分も実家の親から、いまだに時々荷物が届く。
荷物を見て「ドキ」、空ける瞬間「ワクワク」、がさがさ取り出す時「ウキウキ」としてしまう。
だから、もうすっかり大人でもある元中くらいの人への荷物にも、そんな気持ちを味わってもらいたくていろいろ入れてしまう。
米とそれだけあれば、とりあえずおなかを満たせるレトルト食品、ふりかけ、インスタントスープは鉄板、お茶の類、甘いのとしょっぱいお菓子も入れてみる。
どこでも買えるものばかりでも、箱から出てくるとちょっと嬉しいようだ。
しかもまだ新卒で、そんなに潤沢な経済状況でもないから、お菓子などがあるとに余裕が生まれるらしい。

人は、生きるために働き、命を存えるために食べる。
いまの日本は、物価上昇率と賃金上昇率に甚だしい差ができている。
電気もガソリン、食品全般にもわたって値上げが断続的に行なわれ、生活レベル下層の自分でも感覚的に月額1万円以上、1年前より生活費負担増となっていると思う。
このままの生活を維持していては、破綻しそうで恐ろしく、さらに財布の紐を締めなくてはならない。
病気になっても、病院にいくことすら二の足をふんでしまう。
ちょっと前、しばらくぶりに歯の治療をした。
案の定、月を跨いでの治療が一回あり終結したが、例の月ごとの初診料発生で、なんとも気分がよろしくない。
医者も経営と生活があるのは仕方がないにしても、患者にも生活がある。
健康を担保に取られている辛さと、医療機関難民地域では、下手に関係を悪化させたくない気持ちも働く。
ちょっと話が脱線してしまったけれど、経済格差二極化と激上がり物価上昇率で、もう楽しく生きる資源が枯渇しそうな悲鳴、つい漏れ出てしまった。
せめて、人を想う情だけは、無くなりたくはない。

誕生

2022-02-27 22:36:50 | 随想たち
昨年末、私の知るところの人たちに、相次いで赤ちゃんが誕生した。
しかも母子共に健やかでいて、なによりとてもおめでたいことだ。
今日は、親戚にあたる若夫婦が訪ねてきて、2ヶ月になる赤ちゃんを連れてきてくれた。
義父母にとっては二人目の曾孫で、ことのほか嬉しそうだ。
そこに居合わせた大人たちは皆赤ちゃんを抱いて、あらん限りの祝福の言葉を掛ける。
新しい命は、周りに明るい雰囲気をその存在だけで与えてくれる。
「ようこそ、この世界へ」とシンプルに伝えたいところだが、この可能性と未来を内包した小さな存在に、無責任に言えない自分がいた。
自分が今出来ることをするしかない。
少しでも、生きていることが辛くないと思えるような世界に近づけるように、真心の種を蒔き続けよう。
出会った人に、ささやかな誠意を尽くそう。
何がどう作用するか、それは神のみぞ知るという感じにしても、少しでも多くの可能性を作っていきたい。
人は人によって損なわれもし、また救われ、生かされるのだから。

みんなの言う平等・公平の弊害

2022-02-26 00:06:47 | 随想たち
昨日付けのニュースで「特別支援教育、全教員が2年以上の経験を積むのが望ましい」と、文科省検討会議においてまとめられたとあった。
これについて、私は必要だと考えている。
実際、特別支援教育を必要としている児童生徒が増加の一途を辿っていて、それぞれの個性に応じた支援が通常教育を受けるよりさらにより精緻になされる必要があるので、それらに精通した教員がいるのが望ましい。
本来ならば、従来の特別支援教育と、さらに発達障害に詳しい教員がいるのが理想的だ。
けれど、特別支援教室に入級しない、したくない、その基準に及ばない所謂グレーゾーンの児童生徒がいる通常学級において、確かな支援が受けられずに成長の機会を逃している場合がある。
そこで、どの教員にも、支援の知識と技能を持ってもらえたなら、子供の個性を見落とし見過ごさないでもらえる可能性が高まるのではないだろうか。
いま、どの支援の場においても、チーム制を推奨している。
それぞれの専門や、多くの目を持つことで、より確かな支援を提供できるようにとの狙いがあるためだ。

人はそれぞれ能力が異なり、能力値のグラフも凹凸がある。
体の大きい人もいれば、小柄な人もいる。
足の速い人がいれば、足の遅い人もいる。
歌の得意な人、不得意な人。
手先の器用な人、不器用な人などなど。
生まれながらに個性豊かなのだ。
つまり、出発地点はそれぞれ違っていて、まさしく平等ではないといえよう。
だから、同じことをしていたら、その苦手なことを引き上げるのは難しいし、強みを磨くこともかなわない。
そこで、その人にあった方法で梃入れが必要になる。
すると、その梃入れが不公平だと考えられることがある。
いやいや待って欲しい、能力値がそもそも不平等なのだから、みんなと同じにしていてはある人たちは不利益を被るのではないか。
目先のスパンだけで捉えないで欲しい。
人の長い人生、自立してよく生きるには、それだけの力を得なくてはならないでしょう。
人が自立して生きることは、人の尊厳につながる大切なことだ。
それを実現させる支援は、必要不可欠。
公平とは、それを保障するための機会の提供であるのではないだろうか。

さて、先の特別支援教育を全教員が経験するということに戻る。
ある意見では、それによって教員を目指す人が減少するのではないかという危惧。
確かにそれも一理ある。
けれども、教育とは人の未来を育む大切な場なのだ。
一教員の負担を軽減するために、一人当たりの負担人数を減らす、つまりは副担任制にするなどにしたり、学校外の諸専門家との連携など、多面的複眼的に子供の育成を図る。
人を育成するには、多くの人的パワーが必要不可欠なのだ。
これは未来への投資。
人が人を損なっていては、もうそれは種として終わっていると思うのだが、いかがだろうか。

寒気到来に備えて、新しいコタツ掛け

2021-11-26 23:09:25 | 随想たち
寒気到来で、今週末は12月下旬の寒さになるというから、思い切って新しいコタツ掛け布団を購入した。
届いたのは水曜日だけれど、フルタイムの仕事の日は、届いた荷物を解くのでさえする余力は残っていない。
今日はたまたま半日勤務だったので、仕事から帰ってようやく梱包から出した。
静電気が恐いのと、マイクロファイバーの塵製造機になりそうな布団類を避けて、綿100%の表地のものを選んだ。
それなのに、コタツ用ブランケットだけは、マイクロファイバーであるフリース素材のものという矛盾しかないチョイス。
それも、よく食べこぼす家人対策であって、すぐに洗って乾くのが一番だからだ。
ともあれ、セッティング完了したコタツは、もう人をダメにする威力が激増した。
これでこの冬を暖かく快適に過ごせそうだ。

ところで、この前に使っていたコタツ掛け布団は、なんと24年も使っていた。
大方の人は信じられないだろうが、大切に毎年の冬お世話になっていたのだ。
私と家人共通の古い付き合いで、しかも仲人をお願いした方が、結婚祝いにと贈ってくれた物だ。
はじめは、コタツ掛け布団とそのカバー、同じ模様のクロス、コタツマットの4点セット。
グリーンを基調としたウィリアム・モリス調のもので、とても気に入っていた。
コタツを用意する度毎に、その人のことを思い出し、我ままを受け入れて贈ってくれたことに感謝をする。
まずはじめにコタツマット、次にコタツ掛けカバー、クロスの順に使用限界を迎え、そして今年、コタツ布団も役目を終えることになった。
良い品物は、長く持つし、使い勝手もよく、よって気分もいい。
良い物を、大切に長く使うことが究極のエコロジーである事は、自明の理。
しかし、廻して何ぼの消費社会を否定することでもある。
廻っていなかったら死んでしまう?この経済最優先の世界において、スローな経済は、危険なのだろう。
でも、物はいろんな要素から成り立っていて、簡単に使い捨てては大切な何かを冒涜している気がしている。
アニミズム的な、あらゆるものが尊いと感じられることが、一番のリスクマネジメントではないだろうか?
緩やかな経済活動にシフトし、そして搾取しすぎは罪なのだと悔い改めることが出来るのならば、世界は幸せになれそうだ。