rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

すぐそこにある感動

2023-04-10 22:11:06 | 随想たち


なんてことのない景色。
毎日のように視界に入ってくるが、意識しない風景。
見慣れたその景色が、言いようのない存在の強さと美しさで、私の心を揺さぶり捉えるのだ。
澄み渡った空、軽い空気、そよぐ風が若葉を揺らし奏でる木の葉擦れの音、力強い生命の囀り、明るいトーンが支配する世界。
胸が切なくなるほどこの景色を失いたくないと思い、何気ないものに心を震わせることができる自分でありたいと強く願うのであった。






アーモンドの花咲く 2023年3月21日

2023-03-21 23:35:59 | 随想たち
アーモンドの花


鉢植えミモザ

ピンク色のアーモンドの花が咲き出した。
鉢植えのためか、それとも種類が違うせいか、大きな地植えのミモザから遅れて咲き出した鉢植えのミモザ。
庭を巡って様々な植物たちの変化を見るのは、生命力を感じられて気持ちがよくなる。
今だけは、WBC世界ベースボールクラシックスでの侍ジャパンの活躍に、日本中が歓喜している。
そのほかには、日本という国を衰退させるかのような事象が、引きも切らず捲き起こっている。
食糧生産問題、エネルギー問題、物価の高騰、止まらない少子化、自殺者の増加、治安の悪化、格差の拡大などと、枚挙に暇がない。
誰かが何とかしてくれるだろうと思っているうちは、この流れは止まらないだろう。
巡り巡って我が事とだということを自覚して、それぞれが自分にできることをやるのが大切だ。
何事にも関心を持ち、自ら考えて判断し、声をあげて意思を示す。
今までの価値観を修正変更する必要もあるかもしれない。
絶望するには、まだやれそうなことがある。
どうにか踏みとどまりたいものだ。


2022 希望を持って挑み続けていく 2023

2022-12-31 22:21:45 | 随想たち


ともするとすべてを投げ出してしまいたくなるけれど、命の本質はその生を生き抜くことと、踏みとどまる日々。
ブル-ベリーやラズベリーの世話をしていると、その命に癒され力をもらって前向きになれる。
車の窓の向こうに流れる、何の変哲もない景色に美しさを見出す時、まだ自分の感性は干からびていないと知る。
どんなの絵を描こうか、何を作ろうか考えている時、心が弾み湧き立つのを感じると、生きる喜びを持てる。
自分が何をしていきたいのか、希望を捨てずに小さなことでも挑み続けていきたい。

今年当ブログを訪問してくださった方々、地球に生きるすべて人々の幸せを願い、また感謝を捧げたい。

そのままな、贅沢貧乏

2022-10-15 23:08:39 | 随想たち
毎度のごとく不親切、視覚に訴える画像がない。
もう食べちゃったからね。
地域で付き合いのある方から、つまり生産者さんより三つ葉を頂いた。
多分スーパーで買えばそこそこのお値段がするはずで、自分で買ったことがないから皆目見当が付かない。
その三つ葉を、贅沢にも一袋分を二人分の澄まし汁に使いきってしまう。
三つ葉の香りが立ち上る、澄まし汁は絶品だ。
しかも今日はシメジも加わって、さらに味に奥行きが出ていた。
三つ葉は2cmくらいに切り、それを卵で閉じて、しょうゆ仕立ての澄まし汁として頂くのだ。
もうそれだけで満足度が、爆上がり。
後は炊き立ての白飯と、佃煮やふりかけで十分におなかも心も満たされた。
この澄まし汁があるときは、かえってその方が味を邪魔しないということもあるけれど、我が家の家計が厳しいのが4割、加齢で消化に負担がかかるものを受け付けにくくなった3割というのがホントの内訳だ。
けれども、様々な人の好意によって頂ける三つ葉やレンコンだけでなく、家人が丹精こめて育てているブルーベリーにラズベリー、一枚田でとれるお米など、実に豊かな恵みに囲まれている。
存在の土台となる大地を直に感じながら、自分の味覚を喜ばせ、血肉となり、心も満たす。
概ね世間一般の判断からすると、いわゆる貧乏、低所得という立ち居地ではあるが、生き物としての贅沢を得ている。
貧者の負け惜しみと捉えられなくもないけれど、何を持って自分の生き方、幸せ、満足を決めるかの価値観によるだろう。
しかし、それにしても物価の上昇と社会制度の変更には、ほとほと打撃を受けている。
自分のできるまじめな労働をして得ている収入では、望まないダイエット生活、医療機関を受診するのに二の足を踏むことが、加速していく。
もう人生半分以上いった世代の諦めは、まだ仕方がないにしても、未来をたくさん持っている若い人たちの絶望感は、ほぼ病的な域に達していそうだ。
こんな悲しいことはない。
若い人たちの自助努力を当てにするのはお門違いで、もう自分は引退して余生をなどと思っている人生の諸先輩たちが率先して未来を良くする行動を起こさないと、この国は、世界はデストピアと化してしまう。
だから、非力な自分ではあるけれど、生きるに値する世界になるように、手の届くところから働きかけをしていこう。
もっとも、既に挫けそうになっているくらい、力不足を実感しているのであった。

「余」が指し示すものの大切さ

2022-03-27 23:54:19 | 随想たち
子供たちの生活が、窮屈になっている。
田舎では、学校の統廃合によりスクールバスで通学をする。
不審者の脅威に曝されることがない安全と、天候気温に左右されない一見快適とも思えるスクールバスだが、車中で同乗している子供同士のコミュニケーションがいつも楽しいものであろうはずはなく、気まずくなった時には苦痛の時間となる。
うまく仲直りできたら問題ないが、そうならないときにはバスに乗りたくないのは当然で、親によって送迎する代替手段が使われている。
バスや自家用車での登下校は、子供たちが自分たちで自由に使える時間を奪い、早めに登校して、放課後校庭で少し遊んでからの下校、歩きながらのおしゃべりや道端にある発見の機会を奪った。
どちらにしても子供たちは、大人の管理下から外れた時間を持てなくなるのだ。

学校においては、かつて問題視されていた昭和の詰め込み教育など生ぬるいくらいのカリキュラムが組まれ、休み時間は削られている。
それは、小学校においても例に漏れない。
授業の一環的なレクリエーションの時間は、お膳立てされた遊びで、誰もが何かに参加しなくてはならなくて、子供たちの意思はある意味軽視されている。
だれしも時には何もしたくなくて、他の人たちの遊ぶ姿を見ているだけで満足することもある。
効率優先とすれば、休み時間は余分な時間というのだろう。
けれどその自由になる時間で、友達と遊んだり、気持ちを整えたりもできるのに、その時間が削られているのだ。

どうもこの十数年、管理しようとする傾向が強まっているように思える。
箱の中に隙間なく物を効率よく詰め込めば、がたがたと揺らしても中の物がごちゃごちゃと崩れることはない。
さらにはこの中を細かく区切ればなおのこと収まりはよく、管理しやすい。
文章を作る時、余白なし、段落もつけず改行もなし、本ならば章が変わるのを明確にするために無地のページを挟み込まないとどうなるだろう。
文字で埋め尽くされた紙面は、何がどこに書いてあるのか分かりづらく、大変読みにくい。
段落、改行など、ちょっとした余白は、話のまとまりを意識したり、読むブレスを促す。
それが、読者に作品や自分との対話する余地をもたらしてくれると同時に、思いもかけない反応を引き出す場合があり、自由度が保証される。
自由は、管理者にとって厄介極まりない。

真の生きている実感は、自分が確実に何かに関与できている手ごたえで得られるのではないだろうか。
結果がすでに決められた範疇にある中での関与では、達成感は乏しい。
ある程度自由の利く余地があってこそ、満足の度合いが高い。

唐突かもしれないけれど、芸術など文化は、人間活動での余剰といえる産物。
美しい服、精緻な装飾が施された時計、2シーターのスポーツカー、三ツ星レストランなど、健康で生産するだけの生存活動には必要でないものだ。
ある思想、体制にとって、目の敵にされ排除されたのも一理ある。
しかし、ただ生きるだけでは満足できないのが人間だ。
どこかに遊ぶ感覚がないと、人の心は機能しなくなる。

つまり、余分なものに支えられて、人は生きているのだ。

人の成長過程のまだ初期段階である子供たちから、自発的に関与できる時間を奪ってはならない。
遊びの中で、見出される個々の能力、互いのクセを認め合い、譲歩し妥協する工夫と知恵、思いやりを持ち、自分と相手を知る。
人間育成に、コストカットを適用してはならない。

ちょっと長くなり文章が荒れてしまった。
備忘録としてここに留め置こう。