rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

地元漫遊

2021-02-21 23:52:46 | 散歩

大山守大塲家郷士屋敷

初代水戸藩主 徳川頼房が、領内巡視のときの宿舎としても使われていた史跡。
今は、新型コロナ警戒による休館で見る事はできない。
庭内にある梅の花が、この暖かい陽気に押されて満開となっているようだ。
周りには、楓やケヤキの古木もあり、時間の積み重なりが見て取れる。
この屋敷の東側の高台には、学問所も作られていたらしく、天狗党の勇士も砲術など学んだという。
何を御旗に掲げるか、時代の潮流に乗るかで、そのたどる運命が大きく変わる、心の痛む史実だ。
昨日訪れた保和苑にある天狗党の終焉の地から移設された回天館、その前には天狗党志士を悼む墓石が並んでいた。






寄り添う木

この木のある場所は、大山守大塲家郷士屋敷から霞ヶ浦を越えて西側にある地域の神社裏。
なぜかこの二本だけ残っていて、空を背景にして孤独のような、そうでもないような、なんともいえない雰囲気に惹かれた。
ただそれだけ。




春の陽射しに誘われて

2021-02-21 00:14:27 | 散歩

回天館

 








大洗磯前神社


梅と松

子供のころ、たびたび遊びに出かけた保和苑、正式には大悲山保和院桂岸寺といい、地元では二十三夜尊、子供流に「さんやさん」と呼んで親しんでいた。
かつて、神社などには動物園的な要素を取り入れているところがあり、ここにも孔雀などの鳥類を囲う大きな鳥小屋、アシカのプールが設けられていた。
駄菓子を売る店も併設され、子供にとってはこの上なく楽しい場所だった。
今は、鳥小屋を留めていて、孔雀の番と白い鳩たちがのんびりと過ごしている。
その代わり、庭がとてもよく整備されていて、子供の時には目を引かなかったけれど、立派な梅の古木や松に楓が、その存在感を穏やかに示している。
紫陽花も有名で、園内に巧く設えてあるが、まだその時期ではない。
ゆっくりと昔の面影を探しつつ、家人と元小さい人と一緒に巡った。
折りしも梅の花がほころび始めていたから、マスク越しにもその香りを感じることが出来て、いっそう気分が浮き立った。
その後、家人と二人で、自分としては初の大洗磯前神社に参拝しに行く。
太平洋を前に望む素晴らしいロケーション。
華美ではないが、なんともいい感じの社殿に、来てよかったと思えた。
周囲には手入れが行き届いた松林がめぐらされ、稲荷神社も祭られていて、散策しながらお参りできる。
地元の人の、神様を大切にする気持ちがしっかりと感じられて、これがいつまでも続くことを願った。
守ることもなかなかに難しい、その担い手の確保がこれからの課題なのだろう。





近くて遠い、そんな場所

2021-02-07 22:59:45 | 散歩

レトロなバス停留所跡


生命力ある枝ぶり、まるで血管のよう


遠くに霞む筑波嶺


ドラマチックな光の演出

昨日と今日は、とても穏やかで暖かく過ごしやすい最高の週末だった。
最近定番となっている、家人とのぶらぶらドライブと散策、今回はこの地域を隔てる霞ヶ浦の対岸を回った。
ここより南に位置するところは、しばしば訪れるのだけれど、今回のところは自分自身は初というもの。
よく見ていると、南北に20kmと違わなくても、どことなく庭や家屋のつくりに差が感じられる。
地域による風習や価値観、美意識があるのだろうか。
はっきりとした裏付けなどとっていなくても、ちょっとした違いに気がつけたときなど、単純に楽しい。
そして、見落とされ埋もれがちな人の連綿とした営みに愛惜を募らせる。

話が変わり、ドライブをしている車中からの景色に、凧揚げを楽しむ幾家族の姿があった。
コロナの影響で、人の密集する場所を避けて休日を過ごす工夫だろう。
通常ならば、ショッピングセンターやテーマパークへ繰り出すのが多くの余暇の過ごし方なのだろうし、子供たちも刺激過多のそのような場所が行きたいところ。
しかし、人の脳の処理には限界もあり、刺激が多すぎると多くの部分を割愛して記憶処理されてしまう。
いや、ある意味自己防衛機能が正常に働いた結果ともいえる。
そこで、広場でゆっくりと行う凧揚げは、やることが明確でシンプル、周りに人も少なく親とのふれあいに集中できる。
記憶に鮮明に深く刻み込まれる可能性は、飛躍的に増しそうだ。
夕方になりそうな光の加減、枯れた芝生の色、うっすらと霞んでいるが晴れている空、穏やかな風は吹いて凧揚げには最適な条件の梅の香がどこからともなく漂う日曜日を、子供も親もしっかりと思い出にするだろう。
人生の、尽きることのない安定の動力としてこのような経験が必要だと、確信を持って言える。


息栖神社と生酒

2021-01-31 00:08:27 | 散歩








近いのに、なかなか行くことのできなかった息栖神社に参拝した。
これで東国三社は、すべて参拝したことになる。
日もだいぶ傾きかけたころなのに、いろいろな所のナンバーをつけた車の参拝者がいる。
彼らも、東国三社巡りをしているのだろうか。
さすがに境内には、その歴史を感じさせる古木があり、自分にとって馴染み深い鹿島神宮の縁社とうなずけた。
利根川に面した鳥居は、忍潮井という日本三霊泉の湧き水があり、その湧き出るところを見られなかった。
けれども、夕日に照らされるそのあたりの景色は、広々とした空を戴いて、心が晴れる素晴らしいものだ。
家人と二人の気ままなドライブは、最近の楽しい習慣になっている。
主に神社仏閣巡りとなっているのは、年相応の行動パターンになっているのだろうと、加齢に伴う一抹の寂しさを分かち合える幸せをありがたく受け取っている。

そして、年明けに購入した生酒を、今になってやっと開封した。
どうにもこうにも心身ともに不調で、丹精こめて作られたお酒を戴く気にはなれなかったのだ。
三社巡りが叶い、その後利益かもしれない気分の軽さで、家人と元中くらいの人の三人でそのお酒を賞味する。
ほのかに漂うふくよかな香り、その割には飲み口がきりりと辛口で、よく知っている麹の華やかな香りの大吟醸と、一線を画している。
日本最古の造り酒屋で、生酒もここからだそうだ。
それはともかく、地元地域のものをいただかなくては、大事な足元を見落としているだろう。
まずは自分の身近なところを大切にすることが、確かな感覚を養うのではないだろうか。

このような考えに及ぶようになったのは、当たり前のようにある環境を離れたことがきっかけだったことはなんとも皮肉。
人の認知の狭さと、それに伴う愚かさの現われと、自戒をもってこれからを歩んでいきたい。


雲多めだけれど

2020-12-13 14:36:48 | 散歩


家人と健康と気分転換をかねて、霞ヶ浦湖畔近くを散歩した。
確かに、この20年でかなり道路が整備され、点在する家々の建て替えも進んで、秘境感は薄くなったけれど、所々にある照葉樹の大木は存在感が強い。
その一帯には、古刹の神社などにも通じる、とろりと濃い空気が溜まっている。
夕暮れが近づくにつれて、太古の精霊たちが木の陰に潜んでいても不思議ではない。
最近、体調の優れない夫婦は、カメラを携えて歩く時間を作ろうと前向きに甥を受け入れる準備を始めた。
もし、死してその後、精霊になれるのであれば、どこかの気に入った苗木に宿り、季節の移り変わり、人の世の移ろいを眺めていくのもいいのではないか。