rock_et_nothing

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食べることの意義、コンビニの功罪

2011-09-25 00:06:19 | つぶやき&ぼやき
昨日、部活に持っていくお弁当のことで、家人が大いに怒っていた。
我が家では、お弁当をいわゆる”買い弁”で済ませることは、まずしない。
しかし、”買い弁”がほぼ占める部活のお弁当事情、家で作ったお弁当を持っていくのに抵抗を感じる中くらいの人は、自分も”買い弁”にしたいと訴えていた。
少しは、彼の気持ちを酌まないと気の毒と思い、ときどきはいいことにした。
そんな折、家人が気を利かせていわゆるコンビニのパンを買ってきた。
中くらいの人が帰ってきて、そのパンのことを知ると、自分の好きなものを選びたかったと不満をもらす。
すると、特に食べ物のことになるとがぜん厳しくなる家人は、烈火のごとく中ぐらいの人を怒り始めた。
もちろん、人の厚意を思いやらないこともあるが、もともと”買い弁”に懐疑的な家人の地雷を踏んでしまったことにある。

”買い弁”を全否定するわけではない。
どうしてもお弁当を作ることが難しいときなどは、臨機応変に”買い弁”をしても構わない。
でも、基本は親の作った”お弁当”が、好ましいのだ。
お金を出せば簡単に手に入れられる”買い弁”では、”食”の重みが違う。
それは、作っている姿を目にすることで、人の労と愛情を直接感じる為に。
店に陳列されている商品からは、人の労と愛情が伝わらなく、”食べ物”に対するありがたみも薄れてしまう。
それは、親も子供もどちらにも言えること。
たとえおにぎりだけでも、親握ったおにぎりを持たせ、子はそれを食べる、大切な流れではないか。

手軽にすぐ買えてしまうコンビニのお弁当にパン、便利すぎる落とし穴のように見えてしまう。
効率や合理性をとれば、コンビニの食べ物という選択肢はある。
だが、それで失うもののほうが、大きいように思えてしまう。
家族だけではなく、単身者においても、「食べること」が、空腹を満たすためだけの作業にすりかわる危険性だ。
家族で食事ならば、皆で顔をあわせ、同じ食べ物を食べて共有する、会話や時間だけではないもろもろのことがある。
食事を作ってくれた人の姿があり、家庭ごとの味という個人の原初的深い記憶を形成し、所属意識をもたせ、精神の安定をもたらすだろう。
単身者ならば、自分で食事を作ることにより、生きていく土台を地固めしながら、健康管理も考え、食べ物の奥の深さ、ありがたさを感じ取れるだろう。
毎度のように、手軽に”買い弁”をしていては、食べることの大切さや楽しみを忘れてしまいかねないのではないだろうか。

コンビニの”買い弁”をめぐって巻き起こった騒動、”食”の意識から意義ばかりではなく、社会の、特に資本主義の病理まで見え隠れしている。
食べなくては生きられない、生き物である人間なのだから、食べ物への軽薄な気風は恥ずべきこと。
そして、たまたま幸運にも明日への命を繫ぐ糧に、不自由しないこの状態が、決して当たり前などと思わないように、気持ちを改めなくてはいけない。
食品廃棄物などと、大きな顔してその言葉がまかり通る世の中が、富の象徴と愚かな考えは捨て去ろうではないか。
日本にあるコンビニの陳列棚にある食べ物が、今も消費期限を過ぎようとしている只中にあって。