憤死しそうな光景を、またもや目撃するとは思わなかった。
【憤死とは、憤慨しながら死ぬこと】
一昨日の夕方、家人が激しく憤りながらやってきて、ごろんと横たわりながら悶え苦しみ怒りをぶちまけていた。
「クソー、鳥の奴め!!俺の大事なブルーベリーをめちゃくちゃに食い荒らし、しかも弄んでいる!!!」
あまりの悔しがり憤るその様子に、かつてこれと似たようなものを見たことを思い出した。
そう、小さい人が小学2年生のころ、学校の算数の時間のある出来事によって引き起こされた。
何かと不器用な小さい人は、問題を解くのが遅く、なぜこのようなこともできないのかと先生に注意された。
真面目に取り組んでいたのにもかかわらず注意されるという、言いようのない悔しさを感じ、家に帰り着いてからやりようのない怒りを爆発させた。
ばたんと横たわり体を硬直させて、顔を真っ赤にさせながらむせび泣くその姿に、かつて熱中した三国志演義に出てきた「憤死」という印象深かったワードが、唐突に目撃できた瞬間だった。
それから数年後、再び演者を替えて私の目の前に展開することになろうとは。
もしかして、これって遺伝するのか?
DNAに書き込まれる情報に、憤死タイプというものがあるのだろうかと、思わず笑ってしまった。
家人の怒りは収まるところを知らず、夢の中でも鳥に敵意を向け、さらには早起きをしてブルーベリー畑へ赴き、鳥と睨み合いをすることに。
一般的には、ブルーベリーの結実後は、防鳥ネットを張り巡らすべきなのだが、家人は少しぐらいなら鳥に食べられても問題ないだろうと、高をくくっていた。
猫がいたころは、彼らが警護していたので鳥の食害はたいしたことがなかった。
けれど、今猫はいない。
ブルーベリーの本数も、食害を薄くするには全然足りない。
かくして現実を突きつけられた家人は、防鳥ネットをかけることに腹をくくることになった。
果樹栽培とは、鳥や虫との闘いだ。
双方ともに必死なのだから、悠長なことは言ってられないと学んだ「あわや憤死」の巻である。
【憤死とは、憤慨しながら死ぬこと】
一昨日の夕方、家人が激しく憤りながらやってきて、ごろんと横たわりながら悶え苦しみ怒りをぶちまけていた。
「クソー、鳥の奴め!!俺の大事なブルーベリーをめちゃくちゃに食い荒らし、しかも弄んでいる!!!」
あまりの悔しがり憤るその様子に、かつてこれと似たようなものを見たことを思い出した。
そう、小さい人が小学2年生のころ、学校の算数の時間のある出来事によって引き起こされた。
何かと不器用な小さい人は、問題を解くのが遅く、なぜこのようなこともできないのかと先生に注意された。
真面目に取り組んでいたのにもかかわらず注意されるという、言いようのない悔しさを感じ、家に帰り着いてからやりようのない怒りを爆発させた。
ばたんと横たわり体を硬直させて、顔を真っ赤にさせながらむせび泣くその姿に、かつて熱中した三国志演義に出てきた「憤死」という印象深かったワードが、唐突に目撃できた瞬間だった。
それから数年後、再び演者を替えて私の目の前に展開することになろうとは。
もしかして、これって遺伝するのか?
DNAに書き込まれる情報に、憤死タイプというものがあるのだろうかと、思わず笑ってしまった。
家人の怒りは収まるところを知らず、夢の中でも鳥に敵意を向け、さらには早起きをしてブルーベリー畑へ赴き、鳥と睨み合いをすることに。
一般的には、ブルーベリーの結実後は、防鳥ネットを張り巡らすべきなのだが、家人は少しぐらいなら鳥に食べられても問題ないだろうと、高をくくっていた。
猫がいたころは、彼らが警護していたので鳥の食害はたいしたことがなかった。
けれど、今猫はいない。
ブルーベリーの本数も、食害を薄くするには全然足りない。
かくして現実を突きつけられた家人は、防鳥ネットをかけることに腹をくくることになった。
果樹栽培とは、鳥や虫との闘いだ。
双方ともに必死なのだから、悠長なことは言ってられないと学んだ「あわや憤死」の巻である。