Víkingur Ólafsson – Bach: Concerto in D Minor, BWV 974 - 2. Adagio
コロナウイルスによって、生命の危機、感染の恐怖、生活の崩壊、経済の停滞など、連日連夜報道されている。
差し迫った目前の問題だ。
もちろん、それらをわが身の脅威と捕らえている。
しかし、センセーショナルでもなく、あまり身近に感じられていないかもしれないことに、その実大きな不安がある。
そのことに問題提起している本が、岡田尊司「死に至る病」だ。
副題に、”あなたを蝕む愛着障害の脅威”がついていて、そのまま本の内容を説明している。
子供と関わることが増えた自分にとって、必要に迫られた面は否めないが、様々な本を読み学ぶようになった。
自己の体験と内面、また関わる子供たちの様子や背景などから、岡田尊司の著す愛着問題に焦点を当てた本の数々は、かなりの説得力を持つものと思えた。
おそらく、岡田尊司に私淑しているといえよう。
かなり乱暴な言い方で好まないのだが、所謂発達障害、ある精神疾患の根源的要因に、愛着に問題を抱えている場合が多い。
人が成長する中で、土台となる心と体を育む時期に、適切かつ十分な愛情を注がれながら世話を受けることの大切さを説いている。
それは、何も母親だけが負う責任ではなくて、子供を取り囲む大人たちを含んでいる。
もし、子供がそれらを受け取ることに恵まれなかったならば、将来に大きな負債を抱えて生きていかなければならなくなる。
子供の生来の特性で、過敏だったり落ち着きがなかったり反応が薄かったりしても、少しでも早く大人が気づいて特性に見合った対応支援が出来たなら、子供の困り感も軽減し、成長とともに発達の凹凸がならされていくだろう。
そうなるためには、子供を注意して見守る存在がいなくてはならないのだ。
しかし、ここで辛いのは、養育する大人も心に問題を抱えて不安定だったり、経済や環境的に苦境に立たされて余裕がない場合、この役割をこなすことが出来ないということだ。
出来るなら、子供の両親、肉親が、愛情を持って養育することが一番望ましい。
けれど、この不安定な時勢にあっては、なおさらそうも行って入られない。
人は、大きなつながりの中で生きる社会的動物ゆえに、どこかひとつどうにかすれば何とかなるものではないからだ。
子供を大切に育てていくためには、そのものだけではなく、養育者のまたひとつ外側から考え合わせて支援をしていく必要があるだろう。
このためには、息の長い外部のかかわりがなくては成立しない。
核家族化が進み、兄弟のいる人も格段に減った今、頼れる身内はいない場合も多い。
土地に定着して何代も住み続けることも減ってきたから、隣人との関わりも希薄だ。
そこで、住む地域の公的機関がその代役を担うしかなくなってくる。
もし、移動するならば、その個人のデータをそっくりそのままタグ付けして、ちょうどいいマイナンバーシステム、他の地域に移り住み、そこの支援機関が引き継ぐようになるだろう。
これは監視システムの様相を呈していて、なんとも居心地の悪いものだが、身内か近所か公的機関か、見守り支援する場所が変わったと捉えるしかない。
いずれにしても大切なことは、他に依存しなければ生きて成長できない子供を、いかにその子がよく生きていくための用意を整えてあげられるかにかかっている。
ある程度の強さと柔軟性を備えた心を育むために、大人は先に生まれてこの社会を作ってきた責任を負って、子供たちの育成に当たらなくてはないだろう。
実のところ地味なこの取り組みは、薄々気がついている大人たちにとって、面倒で何のうまみも目立った効果も得られなく、黙殺されている。
俯瞰的長期視野を持って当たらなくてはならない人の育成教育を疎かにしては、人間の文化的営みを否定するのに。
もちろん、国も滅ぶ。
どうか、この「死に至る病」を軽んじないでもらいたい。
コロナウイルスによって、生命の危機、感染の恐怖、生活の崩壊、経済の停滞など、連日連夜報道されている。
差し迫った目前の問題だ。
もちろん、それらをわが身の脅威と捕らえている。
しかし、センセーショナルでもなく、あまり身近に感じられていないかもしれないことに、その実大きな不安がある。
そのことに問題提起している本が、岡田尊司「死に至る病」だ。
副題に、”あなたを蝕む愛着障害の脅威”がついていて、そのまま本の内容を説明している。
子供と関わることが増えた自分にとって、必要に迫られた面は否めないが、様々な本を読み学ぶようになった。
自己の体験と内面、また関わる子供たちの様子や背景などから、岡田尊司の著す愛着問題に焦点を当てた本の数々は、かなりの説得力を持つものと思えた。
おそらく、岡田尊司に私淑しているといえよう。
かなり乱暴な言い方で好まないのだが、所謂発達障害、ある精神疾患の根源的要因に、愛着に問題を抱えている場合が多い。
人が成長する中で、土台となる心と体を育む時期に、適切かつ十分な愛情を注がれながら世話を受けることの大切さを説いている。
それは、何も母親だけが負う責任ではなくて、子供を取り囲む大人たちを含んでいる。
もし、子供がそれらを受け取ることに恵まれなかったならば、将来に大きな負債を抱えて生きていかなければならなくなる。
子供の生来の特性で、過敏だったり落ち着きがなかったり反応が薄かったりしても、少しでも早く大人が気づいて特性に見合った対応支援が出来たなら、子供の困り感も軽減し、成長とともに発達の凹凸がならされていくだろう。
そうなるためには、子供を注意して見守る存在がいなくてはならないのだ。
しかし、ここで辛いのは、養育する大人も心に問題を抱えて不安定だったり、経済や環境的に苦境に立たされて余裕がない場合、この役割をこなすことが出来ないということだ。
出来るなら、子供の両親、肉親が、愛情を持って養育することが一番望ましい。
けれど、この不安定な時勢にあっては、なおさらそうも行って入られない。
人は、大きなつながりの中で生きる社会的動物ゆえに、どこかひとつどうにかすれば何とかなるものではないからだ。
子供を大切に育てていくためには、そのものだけではなく、養育者のまたひとつ外側から考え合わせて支援をしていく必要があるだろう。
このためには、息の長い外部のかかわりがなくては成立しない。
核家族化が進み、兄弟のいる人も格段に減った今、頼れる身内はいない場合も多い。
土地に定着して何代も住み続けることも減ってきたから、隣人との関わりも希薄だ。
そこで、住む地域の公的機関がその代役を担うしかなくなってくる。
もし、移動するならば、その個人のデータをそっくりそのままタグ付けして、ちょうどいいマイナンバーシステム、他の地域に移り住み、そこの支援機関が引き継ぐようになるだろう。
これは監視システムの様相を呈していて、なんとも居心地の悪いものだが、身内か近所か公的機関か、見守り支援する場所が変わったと捉えるしかない。
いずれにしても大切なことは、他に依存しなければ生きて成長できない子供を、いかにその子がよく生きていくための用意を整えてあげられるかにかかっている。
ある程度の強さと柔軟性を備えた心を育むために、大人は先に生まれてこの社会を作ってきた責任を負って、子供たちの育成に当たらなくてはないだろう。
実のところ地味なこの取り組みは、薄々気がついている大人たちにとって、面倒で何のうまみも目立った効果も得られなく、黙殺されている。
俯瞰的長期視野を持って当たらなくてはならない人の育成教育を疎かにしては、人間の文化的営みを否定するのに。
もちろん、国も滅ぶ。
どうか、この「死に至る病」を軽んじないでもらいたい。