rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

宇宙よりも遠い場所

2018-04-19 22:38:51 | 随想たち
アニメの「宇宙よりも遠い場所」を見ている。
タイトルは、元宇宙飛行士 毛利衛さんの言葉で、2007年に南極の昭和基地に招待されたとき「宇宙には数分でたどり着けるが、昭和基地には何日もかかる。宇宙よりも遠いですね」に由来するという。
さまざまな個性の女子高生たちが、それぞれの思いを抱いて南極を目指すストーリー。
その過程で起こる心のぶつかり合いや、自分の内面と向き合う場面は、思春期だからというばかりではなくて、人が生きていくうえで必ず立ちはだかる問題でもある。
自分自身よくわかっていない自分をもてあまし、孤独を納得していたつもりでも本心は人とのつながりを求めて、不確かで実体のない友情に憧れる。
人と人との距離は、宇宙よりも遠い場所である南極よりさらに遠く、しかし時には最も近いものでもあったりすることが、伝わるような作品だ。
これは、ずっと感じてきたこと。
でも、時々訪れる「ゼロ・ディスタンス」を感じられるから、生きてこられた。
しかし、それを得られない人たちに出会うとき、底なしの無力感と絶望に打ちひしがれる。
何とかしたいと思い試行錯誤をしながら、最後は強く祈ることしかできない。
「宇宙よりも遠い場所」それは、「人の心」そう思えてしまうのであった。


新緑の季節が終わりを告げる

2018-04-17 23:32:30 | 植物たち
新緑を楽しめる時間は、もう僅かとなってきている。
久しぶりに振った恵みの雨は、あたりの木々の葉の成長を加速して、この週末の夏日が、決定的な緑の葉へと変貌させる。
職場の藤棚には、もう薄紫の花房が垂れだして、初夏が半月以上も早く訪れたようだ。
この数年の今頃は、落ち着かなく、新緑を眺め楽しむばかりで写真にする余裕がない。
けれど、心の中にしっかりと焼き付けて、次の新緑を待とうではないか。



我が家では”飯テレ”

2018-04-13 23:24:56 | 食べ物たち
タイトルにある”飯テレ”とは、何ぞや?
最近我が家で常態化している、食事時に見るテレビのことだ。
いや、どこの家庭でも、食事時テレビを見るのは特別変わったことではないはず・・・
確かにそうなのだが、それとちょっと違うのは、食事の気分を盛り上げるために見る、限定された内容なのだ。
ならば、どのようなものかというと、「ゆるキャン」「孤独のグルメ」の二つだけ。
登場人物が食べている物はもちろんのこと、何より美味しそうに食べる姿が一番のポイントだ。
その様子を見ながら食事をすると、小さい人はさらに食欲が爆発し、最高に楽しい時間が過ごせるのだという、所謂、”食事限定の環境テレビ”。
こう聞くと、食卓が貧相とあながち遠くない状況がバレバレのお恥ずかしい次第。
往生際悪く弁解させてもらうと、ヘタレ体質である私が仕事を終えて帰宅し食事の用意となり、おかずを何品も作る気力がないので、汁物と一品のおかずという定番ゆえ最後ムード添加剤”飯テレ”というわけ。
この数ヶ月、だいぶ助けられたのは、本当のこと。
食事中、まったく家族の会話がないわけではない、その内容について感想を言い合ったりしている。
しかし理想は、余裕あるメニューと楽しい会話で、テレビはつけないのがいい。
以前は、せっかく手間隙かけて作った料理をきちんと味わって欲しいと、テレビをつけないようにしていたけれど、そうもいかない。
これは、豊かに生きることから遠ざかる、好ましくないあり方なのだろう。
それでも、当面”飯テレ”は続きそうだ。

軽やかな春だから、ドビュッシーとデュフィ

2018-04-09 22:28:29 | アート
Debussy: Reverie



the nautical club with cowes


homage to claude debussy

若葉が眩しく風にそよぐ心浮き立つ春だから、音楽も絵も軽やかにいこう。
どちらも伝統的技法から飛び出て、”間”の中に世界を見出した。
ドビュッシーより15年ほど遅れて生まれたデュフィは、相通じるものを感じたのであろう、ドビュッシーをリスペクトした絵を描いている。
鉄道が走り、自動車が馬車に取って代わろうとする、スピードの時代の到来は、人の意識を身軽にした。
彼らはいち早く其れを察知して、己の表現方法を駆使して世に放ったのだ。
時代の波の表面を、すうっと滑って駆け抜けるその爽快感は、わくわく心躍ることだったに違いない。
今、時代の大きな転換期だとは思うのだけれど、100年前の希望が勝る軽やかさは感じられない。
果たして何を求め表現すべきなのか、自分にできるのか、正直なところ戸惑いうろたえるのである。