巷説志忠屋繁盛記・12
なんでY高校なんだ?
担任が不思議そうな顔をした。
タキさんの強いため息に、机の上の進路調査票が飛んで行きそうになり、担任は慌てて手で押さえた。
「YM高がええんですわ」
今どきの高校生とちがって、タキさんは教師には敬語で通す。
別に、教師を尊敬してのことではなく、不要な摩擦を避けたいからだ。
「だけど、進路を考えたら、ぜったいY高校の方が有利だぞ」
自身Y高校の出身である担任は、タキさんの学力ならY高に行くべしと、はなから決めてかかっている。
「もう決めたことですから、これでお願いしますわ」
「……ご両親は承知しておられるのか」
「書類にハンコついたんは親父ですよって」
「……ま、来週もう一度聞くから」
無駄なことをと思ったが、軽く頭を下げて職員室を出た。
中三とは思えない貫録に、出入り口近くの先生たちは盗み見するような視線を投げた。
――そういう目つきは、闘鶏場の軍鶏(しゃも)にこそ向けなはれ――
「コウちゃん、どないでした?」
最近ようやく「あにき」と呼ばなくなった十円ハゲがイッチョマエの心配顔で聞いてくる。
「どないもこないも、俺は初手からY高校に決めとる」
「せやかて、Y高行けるのにもったいない!」
「おまえなー、高校ごときで人生決まるもんとちゃうぞ」
「そやろけども……」
「うちの担任でもY高や、ほんで京都大学進んで、いまはワイらの学校のセンテキや。俺は学校のセンテキなんぞにはならん」
「せやけど、えらそーに言うて共済年金もらえるし」
「志が低い、男は太う短う生きならあかんのんじゃ」
「それに、芳子ねえちゃんもY高に決めたて言うてましたよ」
ちょっと心が動いた。
芳子とは、数年前に大和川で溺れていたのを助けてやった女の子だ。
芳子は一つ年上だが、身体を壊して学年が遅れ、タキさんと同学年になっているのだ。
助けた時の柔らかさは、いまでも衝撃として皮膚感覚に残っている。
「先週、芳子ねえの写真もろたんですわ」
ズック鞄から硫酸紙に包んだ写真を大事そうに出した。
十円ハゲの姉は芳子の友だちで、彼はときどき姉にせがんで写真を撮ってもらっている。
「まあ、見せてみいや」
こういうとき、タキさんは人の好意を無にしない。相手が子分格であっても同じだ。
タキさんの生まれ持った優しさである。
「なるほど……磨きがかかってきたなあ」
「大原麗子に似てまっしゃろ」
「というよりは……言うといたげ、Y高校は水泳の授業に遅刻したら水着のまんまグラウンド走らされるねんぞ」
「え、女子でも?」
「女子でもや」
タキさんなりに子分を教育している。
水着ランニングに象徴されるように、Y高校は体育科を始めとする教師がうるさい学校だ。元々が府立の旧制中学だったので、男子校のころの気風が残っていて、そんな窮屈さはごめんだと言うのが第一の理由だ。
それに比べてYM高校は旧制女学校が新制高校になったもので、「生徒の自主性を尊重する」ということで、なにかにつけて緩い。これが第二の理由。
「慶太(十円ハゲの本名)、ちょっと付いてこい」
学校を出るとカバンだけ家に置き、自転車に乗ってYM高校を目指した。
途中、Y高前を通り、近鉄八尾駅を中継点に喫茶店やらレコード屋やらハンバーガー屋やら本屋などを周る。
「なるほど、この通学路は楽しいなあ!」
自由人タキさんは、Y高へ行っては味わえない道草が大事なのである。これが第三の理由。
そして、YM高校の玉櫛川を挟んだ向かいで下校風景を眺め、Y高にはくらぶべくもない自由さを慶太に知らしめた。
「ま、こういうこっちゃ」
「自分の目で見るいうのは大事やねんなあ」
「ま、たこ焼でもおごったるわ」
山本駅方面にチャリを漕いでいると、玉櫛川遊歩道に意外な後姿を発見した。
「「オ……」」
向こうも気配を察した。
「あら、コウちゃん!?」
「百合子、なにしてんねん?」
「ちょっと偵察」
「偵察て、学校のか?」
自分が行ってきたばかりなので、偵察でピンとくる。でも、これから行くとしたら方角が逆だ。
「あたしはS高やさかい、なんやったらいっしょに来る?」
「あほぬかせ、S高は女子校やないか」
「より取り見取りやでー、どや、慶太も」
慶太もブンブン首を振る。
「アハハ、ほんならね!」
スキップしそうな軽やかさで百合子が去っていく。
ちょっと残念そうなタキさんは、それをおくびにも出さず慶太を引き連れたこ焼き屋を目指したのであった。
「このたこ焼き屋は、もうないなあ……」
写真本を閉じると、Kチーフに言われる前にディナータイムの準備にかかるタキさんであった。