つれづれ

名古屋市内の画廊・佐橋美術店のブログ

冨田渓仙

2024年04月17日 | 冨田渓仙
冨田渓仙のこの本を「これから読みます!」とブログに書かせていただいたのは、随分以前のことです。

そのあとすぐに読むには読んだのですが、ここに書いてある渓仙自身の人となりが今までの私のイメージと余りにも違っていたので、面食らう?というか自分のなかで消化するのに時間がかかりました。

当店の倉庫には日本画というと渓仙のお軸ばかりですし、今もその作品を良いと思う気持ちに変わりはないので、あらためてもう一度お勉強しなおしてみようと思い、再度この本を読ませていただきました。

佐橋と私が冨田渓仙の作品を常に所有するようになりましたのは、多くの面で尊敬させていただいたお客様の影響もあります。勿論、それ以前から作家のことは知っていましたが、それまでは店に飾ろうとはあまり思っていませんでした。

そして、なにより二人で伺った京都で渓仙の「伝書鳩」という作品に出会って
意識が変わりました。

当店でいつも皆様にご覧いただいているのは、主に渓仙の中~後期作品で渓仙調が確立してからのものになります。後期といっても渓仙は昭和11年に56歳で他界しているので区別が難しいところですが、その代表作をたどっていくと少し渓仙への理解も深まるように感じます。


冨田渓仙は明治12年に九州福岡に生まれました。父は「博多素麺」の老舗を営んでいましたが、もともと冨田家は筑前の国で武士として仕え、猿楽能などその子孫は芸事に関心が強かったそうです。また渓仙の祖父で素麺製造の技術を日本に持ち帰った「素久」はなかなかの人物であったといわれ仙厓和尚との交流は大変深かったとあります。幼いころから仙厓の作品にも多く触れていただろう渓仙の作風が変化していくのも当然であったかもしれません。

残念ながら家業は廃藩置県後没落に傾き、絵描きになりたかった渓仙は家出同然で京都の町にたどり着きます。
「京都に出てきて、まだ様子も分からないとき、毎日のように絵を見て廻ったが、このころ京都には偉い先生方が沢山あったが、玉泉の絵は余りに綺麗すぎると思い、栖鳳さんの絵は上手過ぎて真似られず、その中に華香先生のどこかとぼけたようなところがのあるのに引き付けられたのだ」という本人の記録も残っています。

こうして四条派で渓仙の最初の修業が始まります。
都路華香 つじかこう は、幸野楳嶺の弟子で、菊池芳文、竹内栖鳳、谷口香嶠とともに楳嶺門下の四天王と呼ばれました。その人物も大変立派であったそうですが、頑固なところもあり四条派の一匹狼であったとあります。渓仙は師から「写生をする癖がつくと物を見る眼蔵力が自然と弱くなり気韻生動というものがなくなってしまう。かといって写生をしなくなるとそれも概念癖をつけることになる。二進も三進もいかぬのが絵描きであり人間世界である」という教えを受けたとありましたが、こうした内容からも若い渓仙がすでに人を見る目に優れ、自ら師を選んだのだという事がよく理解されるように思えます。

その後渓仙は横山大観や富岡鉄斎との出会いに代表されるように、同時代の画家やパトロンなど様々な出会いを通し、仏画、禅画、南画、西洋の象徴主義に影響を受け、画風を変化させました。特に研究に余念のなかった蕪村や仙厓、鉄斎については強い影響を受けているように感じられます。

渓仙個人の生活については、橋本関雪との騒動など、ここに追ってもきりがないように思いますので省略致しますが、何よりもこの本を読み、その破天荒な人柄に驚いたと同時に大観の片腕として日本美術院の事業に身を捧げ、出征軍人のために百幅もの絵を描き、各神社仏閣への奉納絵を無料で数百枚も寄付し続けた画家は渓仙のほかにいなかったと知り、今は少しほっとしています。そして、渓仙の言葉にも強く惹かれ、これからもその作品に触れていたいと思いました。

下に冨田渓仙の代表作とその言葉をご紹介させていただき、ひとまず筆をおきます。








明治39年 27歳 「伎芸天」 清水寺蔵



右 明治41年 29歳 「訶利帝母」 清水寺蔵


明治41年 29歳 「鵜舟」第6回文展出品作

中国旅行後、この作品で一躍名を広めることになった渓仙の代表作。




右 大正3年 36歳 「沖縄三題」一部
左 大正6年 39歳 「六歌仙」

このころからバロック風の制作が風景画のみならず人物画にも目立つようになる。描線を省略してぶっつけ本番に色彩だけで対象物を描く、この筆法によって大和絵の原色に近い色調の、デフォルメの効いた洋画風の作品が出来上がることになる。日本画の静を動に変える渓仙調を福田平八郎は「冨田さんの絵は塗る絵ではなく描く絵だった。その色彩など非常にナマの侭を駆使しながら、然も古典的な味をだした。結局これは宗教に基礎があったからだと思う。」と述べています。





大正10年 「祇園夜桜」 横山大観記念館蔵

桜もまた渓仙が深く追い求めた画題です。



昭和3年 49歳 「紙漉き」 国立近代美術館蔵

「水の作家」と言わしめた渓仙の代表作

限られたわずか一槽の水にありながら、そこには水そのものの持つ静動の姿がのこりなく描き出されていて、静かなときは鏡のごとく、一たび怒れば天地を覆すという水そのものの変幻自在の威力が水底の眼のようにずっと胸に迫るのを感じさせるものだった(作家 近藤啓太郎)




左 昭和7年 53歳 「優曇鉢羅」 





昭和8年 54歳 「御室の桜」 20回再興院展出品作 福岡市美術館


御室は仁和寺の別称。
本作は冬の桜を見て着想され、その枝ぶりの個性を見分けた渓仙自身が絵の中に花を咲かせた作品です。院展では渓仙の晩年の新境地であると高い評価を得て、のちに生涯の代表作ともなりました。





昭和9年 55歳「伝書鳩」二曲一双のうち 京都市美術館

鳩のもつ温順、清潔、果敢の性質を描破し得た傑作とありました。

この作品の前で佐橋と並んで過ごした時間を今懐かしく思い出します。




冨田渓仙の言葉


無限なる広がり、無限なる流動、それが自然である。絵画においてはわずかに尺余の紙幅に納められる。片々たる紙片にいかに忠実をこととしても、それを写しとることは不可能であろうし、そうすること自体が既に誤であろう。無限と有限とは同一ではあり得ないからである。芸術家の仕事は、それ自体が既に「嘘」に出発しているのであろう。もしそれが無謀な嘘であると考えるならば、全然芸術家として資格無きものである。芸術家は寧ろ「嘘」をもって真を語るのである。



徳といわれるものも、人間生活の最根本的なものであって、樹木における根の如くつねに閑却されがちである。一切の社会的地位とか名声とかの無意味な枝や葉が重大なものであるかの如く考えている。しかし根本を培うことは、そうしたものを獲得せんとする心や或いはあえて獲得した一切のものを捨て去ることなのである。一切の我欲を遮断した境地からされる行動が徳と名づけられるものである。万人の渇仰や敬慕は実はしかく無駄なまわりくどいところから出て来る。徳業は何らかの為にするものではない。なんの為でもないのである。為がない即ち無為である。若しそれが何等かのためになっているとすれば、それは結果から見られたためとなっているのであって、動機や過程においては何らか為に成されたものではない。なげうつものにはかくて渇仰や敬慕によってよきものが蝟(い)するが(集まるの意)それは徳を契機としてつながるものであって、所有ではない。


以上




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