先週はご来客も多く、それぞれにお好みの作品をお楽しみくださいました。
20年の年月を経て、当店の品揃えもある一定のレベルに到達したかと思えるのは、こうしてご来店の皆さまが
当店でお好みの作品をお見つけくださる時です。
けれど、作品に対してお持ちくださる皆さまの感動や例えばご予算などに対する迷いは、そのまま私たちの感動や思いとなり、
作品の鑑賞も含め、「感じる」ということに時々ヘトヘトに疲れてしまう事があるのですね。
そんな時、私は、やはり好きな本を読んだり、この頃では将棋のことは全くわからないのに、どういうわけか?王将戦や棋王戦の
藤井さんや羽生さんの「考えている姿」を中継でボーと眺めたりして自分を取り戻す作業をしています。
洗練されるとはどういうことか。それは、無駄をなくすること。完全に無駄がなくならないと絶対に美しくはなりません。美しい手を指す、美しさを目指すことが、結果として正しい手を指すことにつながると思う。
「捨てる力」羽生善治
以前にも書かせていただきましたが、書のお稽古に通わせていただいて既に4年が過ぎます。
「上手」は一向に妹には敵わず、それでも、書を通して作品を観る目は随分養わせてもらえたという実感があります。
書いたものは、必ず佐橋に見せ、清書を選んでもらうようにしていますが、中国、日本の古典、名跡に触れながら、佐橋自身も美術品全てに対する鑑識眼の向上を感じてくれているようです。
高村光太郎の「書の深淵」という本も初めは、読んでいても全く懐に入ってこない部分もありましたが、
今では、やはり光太郎は素晴らしい!と感動し、心に大きな力をもらう事ができます。
智恵子の縫ったという絹の袋に光太郎が自身の短歌を添える。
そして、近代という時代に出くわした光太郎の苦悩が一挙に作品に昇華されたあの木彫の名品達が
一つ一つここに収められていきました。
天上にひびき、光とよもす
夏の日のうたのうたひて
さびしき小蝉
大正13年 42歳
書は人なり。
画家の書は、書の世界では邪道扱いをされることがほとんどですが、光太郎の書は日本の近代書の
歴史にもその名前を残しています。
光太郎が最も愛したと言われる書の一つは、黄山谷、宗時代の黄庭堅の作品です。
書聖王羲之の時代から、唐時代を経て、新しい書のリズム、展開に
挑んだのが、この宗時代の書家たちです。
さてさて、この書を私はどこまで味わう事ができるのでしょうか。
益々「線」への興味は深まるばかりです。
そして、書の深淵、美の深淵に近づく道は、険しくなるばかりのようです。
企みや欲を削ぎ落とし、また削ぎ落とし
それはただ自身の中に企みや欲が有るという事を認めるだけでよい作業だと思えるのですが、、
少しでも高く、卑しさのない、美しい作品達に出会っていきたいという願いは消えません。
自分を確かめるように、また時々、書のお話もさせていただきたいと思います。
立派な長巻物でたくさんの蔵印が押してありました。
力強く、それでいてふくよかな感じもあり、流れも美しく印象に残っております。
名前は失念しましたが、同時代の他の書家の作品も非常に魅力的なものでした。
他には蘇東坡や米芾(べいふつ)などの書があったのでしょうか。
私は永青文庫で黄庭堅の書をみましたが、光太郞や
Kさんの書いてくださったような味わいがまだよくわからないので
これから臨書してみようと思っています。
コメントありがとうございます。