1日の日曜日には名古屋古川美術館さんで開催中の 書だ!石川九楊展 に伺って参りました。
みなさまよくご存知の書家であり、評論家である石川九楊さんの書の展覧会です。
作品をいくつかお見かけしたことはありますが、個展に伺うのは初めてですので、どのような印象を受けるのか、とても楽しみでした。
書を始めてから、九楊さんのご著書やラジオでの講演などに触れさせていただく機会が増え、作品への興味は増すばかりでした。
けれど。。ですね。やっぱり読めません。
一つ一つ、きちんと点画を踏まえた文字であることはわかるのですが、全く読めません。こういう時、人は「わかろう」としてしまうのですね。佐橋も私も珍しく作品の横の解説文を一生懸命読んだりしました(^^;;
いけない、いけない。
読めずとも、少し筆跡を追ってみると、それぞれの作品からは、音楽を聴いているような、絵画を見ているような印象を受けました。
絵としてみるのか?
館内で上映されているこの書家の制作の様子を拝見すると、その筆使いは絵描きさんのものでなく、間違いなく書を書いている筆の動きなのですね。
やはり、書だ!
そうか、タイトル通り、書だ!
「書はもとより造形的なものであるから、その根本原理として造形芸術共通の公理を持つ。比例均衡の制約。筆触の生理的心理的統整。布置構造のメカニズム。感覚的意識伝達としての知性的デフォルマション。すべてさういふものが基礎となってその上に美がなりたつ。さういふものを無視しては書が存在し得ない。書を究めるということは造形意識を養うことであり、この世の造形美に目を開くことである。書が真にわかれば絵画も彫刻も分かる筈であり、文章の構成、生活の機構もおのづから通じて来なければならない。書だけ分かってほかの物はわからないというのは分かりかたが浅いに他なるまい。書がその人の人となりを語るということもその人の人としての分かり方が書に反映するからであろう。」
ふと高村光太郎の言葉を思い出し、九楊さんの「人としてのわかり方」を感じてみることだけに集中をして、自分の好きな作品をさがしてみようと思いました。
そして最期の最期の展示で、「あっ、この作品は好きだなぁ。なんだかとっても切ないなぁ」と思えました。
作品横のタイトルには「妻を語るIII」とありました。九楊さんはまだ最近、奥さまを
失われたばかりでいらっしゃいます。
作品を拝見して、一番感動したのは、書にこれほどの信念を持って立ち向かわれる書家が今、現代にいてくださるという実感を得られたことです。果たして、画家の世界にここまでの方がいらっしゃるでしょうか?
お金の為でなく、人のためでなく、天に向かって仕事をする。その気骨、そして奥さまを思う優しい気持ち。私なりにそれを感じることができてとても嬉しいきもちになりました。
頭でわかろうとする欲を少し抑え、身の丈いっぱいに心を開いてみれば、そっと応えてくれる。それが本当の芸術だろうと思えます。
分館の為三郎記念館さんにも九楊作品の展示が続いていましたので、久しぶりにお庭も拝見することができました。
展覧会は10月6日まで。講演会やサイン会などまだ企画を残していらっしゃるようですので、よろしければ是非お出かけくださいませ。
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