昨日の雷雨が去り、1日快晴でさわやかな五月晴れとなりました。わが家の
周辺でもカッコウが鳴き始めました。毎年、5月15日~25日ころ鳴き出し、
梅雨が空ける頃には聞こえなくなります。
引き続き中山道4日目のレポートです。
06年5月18日(木) 和田~下諏訪
昨日の雨は上がった。宿の駐車場から、北に湯ノ丸山などの山並みが見える。
今日も国民宿舎のマイクロバスで、和田宿脇本宿そばの広場に送ってもらい、
8時30分にスタートした。
江戸より五十里の表示のある和田一里塚跡で国道と交差し、和田川左岸沿い
に出たが、500mほどで国道に合した。牛宿跡付近にあった杉野屋ドライブイン
で最初の休憩。駐車場の隅に太いグミの木が花を見せていた。
和田宿のはずれにも、かやぶきのバス停があった。
人家が途切れ、与田川沿いの谷間を少しずつ上る。芽吹き始めたカラマツ林
を上がり、唐沢一里塚に出た。林の中なので塚がよく残されている。
国道に戻ると、「只今の気温14度」の表示。男女倉口に着き「歴史の道中山
道」の石碑を囲んで記念撮影し、山道に入る。
路傍に、こけの着いた古い石仏が並んでいた。三十三体観音と呼び、かつて
この山中にあった熊野権現社の前に並んでいたものを、昭和48年(1973)に
ここに安置したという。峠の難所を行き来する人馬の無事を祈って祭ったもの
らしい。
標高1100mを越え、広葉樹はまだ芽吹き始め。ウグイスやホトトギスの
鳴くカラマツの樹林を上がる。ところどころにヤマザクラも咲いていた。
次第に傾斜が強まり汗が増える。国道に出たら、かやぶきの休みどころが
あった。接待茶屋跡で、そばにきれいな湧水が流れ出ている。
下諏訪から車で来たというご夫婦が、炊飯やお茶に使う1か月分だと、たく
さんのポリタンクやペットボトルに汲んでいた。
山道に戻ると、古い石畳がしばらく続く。土の道より補修は少なくて済む
だろうが、歩きやすい道とはいえない。
ウグイスやホトトギス、カッコウなどが鳴く広原一里塚を過ぎ、国道沿いの
東餅屋立場(たてば)跡に11時15分に着く。立場とは、人馬の休息所のこと
である。
かつては5軒の茶屋があり、名物の餅を売っていたという。難渋する旅人の
救助にもあたり、幕末には大名休息のための茶屋本陣も置かれ、峠の要衝
だったよう。
今は通過する人も車も少ないのか、「名物 力餅」の看板の出たドライブイン
は廃業していた。国民宿舎からの弁当が届いたので、少し早めだがここで昼食
とする。
腹ごしらえをして、いよいよ和田峠に向かう。ヘヤピンカーブの続く旧道を
何度かショートカットして上がる。芝草の道は歩きやすく、カラマツ林でさえ
ずるウグイスの美声が、上りの疲れを和らげてくれる。
傾斜が緩やかだったので案ずるより楽に、中山道の最高点・標高1531m
の和田古峠に着いた。ガスで遠望は聞かない。気温が低く、休むと寒いので、
記念撮影をしてそうそうに下りにかかる。
下り道は石が多くて傾斜もきつい。滑らぬように注意しながら慎重に足を
運ぶ。20分余りで林道に出ると傾斜も緩み、歩きやすくなった。
西餅屋立場跡で国道に出る。ここも、江戸時代は茶屋本陣など4軒の茶屋が
あったようだが、その面影は見られない。
国道を横断して南に平行する樹林へ。江戸より53里の西餅屋一里塚を通過、
1㎞足らずで国道に合した。国道に出ていた気温表示は13℃を示す。
砥川右岸沿いに下って行くと史跡・浪人塚がある。元治元年(1864)11月
20日、水戸藩士1000余人が勤王の志をとげようと和田峠を越えてきたが、
高島(諏訪)、松本藩が防いだ激戦地で、討ち死にした浪士を葬る塚があり、
桜が植えられている。
国道をくぐって焼却施設の横を通過、再び国道に合する。薄日が出て、淡い
新緑が優しい彩りを見せる。
地蔵さんが盗まれたという地蔵堂を過ぎ、ほぼ坂を下りきったファミリーレス
トランと日帰りの湯・六峰温泉の併設地で小休止する。
町屋敷集落の家並みを抜ける旧道を進んで、木落坂に出た。がけの上に、
綱の付いたモミの大木が置いてある。
ここは、諏訪大社7年に1度の大祭の最高の見せ場。100m余りある45度
近い急傾斜地に、またがった若者を乗せた御柱を一気に落とす豪壮なシーンが
見られる場所。木落しは、春宮・秋宮の御柱8本を3日にわたって行うという。
「明治33年(1900)、諏訪電気発祥の地」と記された落合発電所横を通過、
さらに下って行くと木の間から諏訪湖が見えてきた。
下諏訪の町並みが近づき、その北端にある諏訪大社春宮に入る。太い杉木立
に囲まれた境内の中心に、二重楼門造りと呼ぶ珍しい造りの幣拝殿があり、
社殿には見事な彫刻が施されていた。
境内には、太く長い御柱が2本立ち、上部が分かれた「結びの杉」と呼ぶ縁結
びの杉や、2本の大ケヤキなどが目を引いた。
流れを越え、近くにある万治の石仏に回る。万治3年(1660)、諏訪大社
春宮の石鳥居を作ろうと、この石にノミを入れたが、石から血が流れ出たので
石工が恐れをなし、鳥居は別の石材で作り、阿弥陀如来をまつったという。
1度見たら忘れられない独特の風貌の石仏だ。
町並みを1㎞ほど南東に進み、諏訪大社秋宮のそばにある今日の宿、山王閣
に16時36分に着いた。
(天気 曇り、距離 26km、歩行地 長和町(旧和田村)、下諏訪町)
周辺でもカッコウが鳴き始めました。毎年、5月15日~25日ころ鳴き出し、
梅雨が空ける頃には聞こえなくなります。
引き続き中山道4日目のレポートです。
06年5月18日(木) 和田~下諏訪
昨日の雨は上がった。宿の駐車場から、北に湯ノ丸山などの山並みが見える。
今日も国民宿舎のマイクロバスで、和田宿脇本宿そばの広場に送ってもらい、
8時30分にスタートした。
江戸より五十里の表示のある和田一里塚跡で国道と交差し、和田川左岸沿い
に出たが、500mほどで国道に合した。牛宿跡付近にあった杉野屋ドライブイン
で最初の休憩。駐車場の隅に太いグミの木が花を見せていた。
和田宿のはずれにも、かやぶきのバス停があった。
人家が途切れ、与田川沿いの谷間を少しずつ上る。芽吹き始めたカラマツ林
を上がり、唐沢一里塚に出た。林の中なので塚がよく残されている。
国道に戻ると、「只今の気温14度」の表示。男女倉口に着き「歴史の道中山
道」の石碑を囲んで記念撮影し、山道に入る。
路傍に、こけの着いた古い石仏が並んでいた。三十三体観音と呼び、かつて
この山中にあった熊野権現社の前に並んでいたものを、昭和48年(1973)に
ここに安置したという。峠の難所を行き来する人馬の無事を祈って祭ったもの
らしい。
標高1100mを越え、広葉樹はまだ芽吹き始め。ウグイスやホトトギスの
鳴くカラマツの樹林を上がる。ところどころにヤマザクラも咲いていた。
次第に傾斜が強まり汗が増える。国道に出たら、かやぶきの休みどころが
あった。接待茶屋跡で、そばにきれいな湧水が流れ出ている。
下諏訪から車で来たというご夫婦が、炊飯やお茶に使う1か月分だと、たく
さんのポリタンクやペットボトルに汲んでいた。
山道に戻ると、古い石畳がしばらく続く。土の道より補修は少なくて済む
だろうが、歩きやすい道とはいえない。
ウグイスやホトトギス、カッコウなどが鳴く広原一里塚を過ぎ、国道沿いの
東餅屋立場(たてば)跡に11時15分に着く。立場とは、人馬の休息所のこと
である。
かつては5軒の茶屋があり、名物の餅を売っていたという。難渋する旅人の
救助にもあたり、幕末には大名休息のための茶屋本陣も置かれ、峠の要衝
だったよう。
今は通過する人も車も少ないのか、「名物 力餅」の看板の出たドライブイン
は廃業していた。国民宿舎からの弁当が届いたので、少し早めだがここで昼食
とする。
腹ごしらえをして、いよいよ和田峠に向かう。ヘヤピンカーブの続く旧道を
何度かショートカットして上がる。芝草の道は歩きやすく、カラマツ林でさえ
ずるウグイスの美声が、上りの疲れを和らげてくれる。
傾斜が緩やかだったので案ずるより楽に、中山道の最高点・標高1531m
の和田古峠に着いた。ガスで遠望は聞かない。気温が低く、休むと寒いので、
記念撮影をしてそうそうに下りにかかる。
下り道は石が多くて傾斜もきつい。滑らぬように注意しながら慎重に足を
運ぶ。20分余りで林道に出ると傾斜も緩み、歩きやすくなった。
西餅屋立場跡で国道に出る。ここも、江戸時代は茶屋本陣など4軒の茶屋が
あったようだが、その面影は見られない。
国道を横断して南に平行する樹林へ。江戸より53里の西餅屋一里塚を通過、
1㎞足らずで国道に合した。国道に出ていた気温表示は13℃を示す。
砥川右岸沿いに下って行くと史跡・浪人塚がある。元治元年(1864)11月
20日、水戸藩士1000余人が勤王の志をとげようと和田峠を越えてきたが、
高島(諏訪)、松本藩が防いだ激戦地で、討ち死にした浪士を葬る塚があり、
桜が植えられている。
国道をくぐって焼却施設の横を通過、再び国道に合する。薄日が出て、淡い
新緑が優しい彩りを見せる。
地蔵さんが盗まれたという地蔵堂を過ぎ、ほぼ坂を下りきったファミリーレス
トランと日帰りの湯・六峰温泉の併設地で小休止する。
町屋敷集落の家並みを抜ける旧道を進んで、木落坂に出た。がけの上に、
綱の付いたモミの大木が置いてある。
ここは、諏訪大社7年に1度の大祭の最高の見せ場。100m余りある45度
近い急傾斜地に、またがった若者を乗せた御柱を一気に落とす豪壮なシーンが
見られる場所。木落しは、春宮・秋宮の御柱8本を3日にわたって行うという。
「明治33年(1900)、諏訪電気発祥の地」と記された落合発電所横を通過、
さらに下って行くと木の間から諏訪湖が見えてきた。
下諏訪の町並みが近づき、その北端にある諏訪大社春宮に入る。太い杉木立
に囲まれた境内の中心に、二重楼門造りと呼ぶ珍しい造りの幣拝殿があり、
社殿には見事な彫刻が施されていた。
境内には、太く長い御柱が2本立ち、上部が分かれた「結びの杉」と呼ぶ縁結
びの杉や、2本の大ケヤキなどが目を引いた。
流れを越え、近くにある万治の石仏に回る。万治3年(1660)、諏訪大社
春宮の石鳥居を作ろうと、この石にノミを入れたが、石から血が流れ出たので
石工が恐れをなし、鳥居は別の石材で作り、阿弥陀如来をまつったという。
1度見たら忘れられない独特の風貌の石仏だ。
町並みを1㎞ほど南東に進み、諏訪大社秋宮のそばにある今日の宿、山王閣
に16時36分に着いた。
(天気 曇り、距離 26km、歩行地 長和町(旧和田村)、下諏訪町)