2011年8月3日(水)
久しぶりに連れ合いと出かけた。目的は、佐倉市立美術館で開催中の「平田郷陽(ひらた
ごうよう)の人形」展の観覧である。
京成本線の佐倉駅に11時半頃下車し、駅前にある佐倉市観光協会↓に寄り、「佐倉散策
マップ」など数点の、市内観光用の参考資料を入手した。
観光協会の横の通りを南に向かう。近くの肉屋さんの片隅に、クリの飾り物が置いてある。
クリと肉とはどういう関係があるのだろうか…。
通りの向かいには、古くからの店と思われるせんべい店があった。
駅から10分足らず、通りの突き当たりのクラシックな建物が、佐倉市立美術館。
表側の建物はエントランスホールと呼び、大正7年(1918)に川崎銀行佐倉支店として建
てられた。その後、佐倉町役場や市役所、公民館として利用され、平成6年(1994)に市立
美術館になったという。
建物は、ネオ・ルネサンス様式と呼ばれるもの。設計した矢部又吉がドイツに留学した頃、
ヨーロッパで流行していたといわれ、ヨーロッパの様式に基づきながらも、屋根を切妻風に
仕上げ、城下町佐倉の古い町並みとの調和を図ったようで、現在は、千葉県文化財に指定
されている。
さて目的の「平田郷陽の人形」展は、エントランスホールの奥の、こちらの建物↑(反対の
南側から見たもの)の2階で開催されていた。
平田郷陽(1903~1981)は、人形師である初代郷陽の長男として東京・浅草に生まれ、
20歳で2代目を襲名している。
初期は、迫真的な人間を表現する作風で高い評価を受け、人形作者では初めての帝展で
入選を果たしたが、しだいに作品やテーマを抽象化させ、戦後は人形独特の美を、女性の
姿に託して表現し、人形師としては初めての無形文化財保護者(人間国宝)になっている。
会場では、昭和初期から戦後までの作品106点が展示され、素晴らしい作品にひかれる
とともに、作風の転移の様子がよく理解できた。
ちなみに、なぜこの展覧会に行ったかというと、私の職場の上司でもあり、8ミリ映画づくり
のグループで20年余り、作品づくりについてのご指導もいただいた、Hさんがお持ちの、昭
和5年(1930)の作品「静春」という作品が展示されているから。
「静春」は、Hさんが何年か前、テレビ東京系の人気番組、「開運!なんでもお宝鑑定団」
に出品され、数百万円の鑑定を得ている平田郷陽の代表的な作品のひとつで、今回初めて
実物を拝見することができた。
なお、この展覧会は佐倉市美術館で、8月28日(日)まで開催されている(月曜休館)。
観覧を終えて美術館を出て、午後は市内を少し回ってみることにした。西に少し進むと、昔
の高札場跡らしいところに、高札のスタイルで幾つかの掲示が並んでいる。
すぐ先の新町交差点には、旧佐倉町道路原標がある。佐倉町の当時はこのあたりが町の
中心だったのだろうが、いま原標の周囲は草が生えていて、往時の面影は少ない。
その交差点を左折して南に向かと、古い建物が残っていた。400年前から続くという平井
家で、土井利勝が佐倉城を築城した際の棟梁・平井優兵衛が祖先だという。
平井家は、江戸時代は代々薪炭商を営み、明治に入っては佐倉郵便局の先駆けを担い、
その後、酒店を経営したが、平成20年にこの地と建物を佐倉市に寄付したとのこと。
建物は、明治19年(1886)の大火後に建て替えられたものらしい。
13時近くなったので昼食をと思い、食事の出来るところはないか探しながら進んだら、次
の通りにそば処があった。
入ろうと店内をのぞいてみたら、何人かが待っていたのであきらめ、近くに看板の立って
いた700mほど先の店に向かうことにする。
家並みが途切れて南南東に向かって緩やかに下り、国道296号バイパスの鏑木交差点
に出た。高崎川の鏑木橋を渡ると、和風の造りの佐倉警察署↓があり、はす向かいにあった
店で昼食をした。
ぱらついていた雨が上がり、青空が少し見えてきて蒸し暑い。鏑木交差点に戻り、バイパ
スを西へ、次の信号を北に入り、高台に向かう薬師坂を上がる。途中に、地蔵堂があり、等
身大くらいのお地蔵さんが祭られていた。
台地まで上がって、西に進む静かな通りは「武家屋敷通り」と呼ばれ、江戸時代は家老の
若林家を始め、佐倉藩政を支えた上・中級武士の屋敷が建ち並んでいたという。
その一角に、後の日露戦争で重要な役割を果たした児玉源太郎が、佐倉連隊長時代の
明治13年(1880)から5年住んだという借家跡があった。
現在もお住まいの武家屋敷のうち、県や市の文化財になっている3棟が有料で公開されて
いる。これはその一つ、屋敷には入らず、門前からのぞかせてもらう。
往時の面影の残る通りを、西端にある寺院、大聖院の裏手まで進み、りっぱな孟宗竹の
竹林に挟まれたひよどり坂を下る。
折り返すように北側の坂を上がり、佐倉市民体育館の横に出て左折して西へ。日本瓦の
和風な造りの佐倉中や、佐倉東高の先に進んで、国立民俗博物館のくらしの民家苑に入る。
苑内では、毎年この時期に開催する「伝統の朝顔」の展示中。見たことのない花や葉の
珍しい朝顔がたくさん並んでいたが、詳しくは別稿にて紹介する。
15時半を過ぎたので国立民俗博物館の観覧は止めて、そろそろ帰路につくことにする。
植物苑の西側から、佐倉城趾の空堀の横を下って、姥が池のほとりへ。池のほとんどを
埋め尽くすスイレンの白い花が咲き出していた。
東側に広がる菖蒲田や草地の間の遊歩道を進んで、住宅街に入る。国道296号と平行
する南側の旧道に、以前来たときにも見た、かやぶきの民家が残っていた。
市役所の南側で、国道から駅前に通じる車道に出て、駅に向かう。国道沿いのレストラン、
ガストの壁面は、遮熱のためのゴーヤーがいっぱいに伸びている。
京成成田駅には、16時半頃に着いた。
(天気 曇一時雨、距離 5㎞、地図(1/2.5万) 佐倉、歩行地 佐倉市)
この日、8月3日、朝日新聞東京本社版夕刊、「be evening」の「美の履歴書」に、美術館で
観賞した、平田郷陽の作品「薬玉」(くすだま)が取り上げられた。
佐倉市立美術館のウェブページはこちら。
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久しぶりに連れ合いと出かけた。目的は、佐倉市立美術館で開催中の「平田郷陽(ひらた
ごうよう)の人形」展の観覧である。
京成本線の佐倉駅に11時半頃下車し、駅前にある佐倉市観光協会↓に寄り、「佐倉散策
マップ」など数点の、市内観光用の参考資料を入手した。
観光協会の横の通りを南に向かう。近くの肉屋さんの片隅に、クリの飾り物が置いてある。
クリと肉とはどういう関係があるのだろうか…。
通りの向かいには、古くからの店と思われるせんべい店があった。
駅から10分足らず、通りの突き当たりのクラシックな建物が、佐倉市立美術館。
表側の建物はエントランスホールと呼び、大正7年(1918)に川崎銀行佐倉支店として建
てられた。その後、佐倉町役場や市役所、公民館として利用され、平成6年(1994)に市立
美術館になったという。
建物は、ネオ・ルネサンス様式と呼ばれるもの。設計した矢部又吉がドイツに留学した頃、
ヨーロッパで流行していたといわれ、ヨーロッパの様式に基づきながらも、屋根を切妻風に
仕上げ、城下町佐倉の古い町並みとの調和を図ったようで、現在は、千葉県文化財に指定
されている。
さて目的の「平田郷陽の人形」展は、エントランスホールの奥の、こちらの建物↑(反対の
南側から見たもの)の2階で開催されていた。
平田郷陽(1903~1981)は、人形師である初代郷陽の長男として東京・浅草に生まれ、
20歳で2代目を襲名している。
初期は、迫真的な人間を表現する作風で高い評価を受け、人形作者では初めての帝展で
入選を果たしたが、しだいに作品やテーマを抽象化させ、戦後は人形独特の美を、女性の
姿に託して表現し、人形師としては初めての無形文化財保護者(人間国宝)になっている。
会場では、昭和初期から戦後までの作品106点が展示され、素晴らしい作品にひかれる
とともに、作風の転移の様子がよく理解できた。
ちなみに、なぜこの展覧会に行ったかというと、私の職場の上司でもあり、8ミリ映画づくり
のグループで20年余り、作品づくりについてのご指導もいただいた、Hさんがお持ちの、昭
和5年(1930)の作品「静春」という作品が展示されているから。
「静春」は、Hさんが何年か前、テレビ東京系の人気番組、「開運!なんでもお宝鑑定団」
に出品され、数百万円の鑑定を得ている平田郷陽の代表的な作品のひとつで、今回初めて
実物を拝見することができた。
なお、この展覧会は佐倉市美術館で、8月28日(日)まで開催されている(月曜休館)。
観覧を終えて美術館を出て、午後は市内を少し回ってみることにした。西に少し進むと、昔
の高札場跡らしいところに、高札のスタイルで幾つかの掲示が並んでいる。
すぐ先の新町交差点には、旧佐倉町道路原標がある。佐倉町の当時はこのあたりが町の
中心だったのだろうが、いま原標の周囲は草が生えていて、往時の面影は少ない。
その交差点を左折して南に向かと、古い建物が残っていた。400年前から続くという平井
家で、土井利勝が佐倉城を築城した際の棟梁・平井優兵衛が祖先だという。
平井家は、江戸時代は代々薪炭商を営み、明治に入っては佐倉郵便局の先駆けを担い、
その後、酒店を経営したが、平成20年にこの地と建物を佐倉市に寄付したとのこと。
建物は、明治19年(1886)の大火後に建て替えられたものらしい。
13時近くなったので昼食をと思い、食事の出来るところはないか探しながら進んだら、次
の通りにそば処があった。
入ろうと店内をのぞいてみたら、何人かが待っていたのであきらめ、近くに看板の立って
いた700mほど先の店に向かうことにする。
家並みが途切れて南南東に向かって緩やかに下り、国道296号バイパスの鏑木交差点
に出た。高崎川の鏑木橋を渡ると、和風の造りの佐倉警察署↓があり、はす向かいにあった
店で昼食をした。
ぱらついていた雨が上がり、青空が少し見えてきて蒸し暑い。鏑木交差点に戻り、バイパ
スを西へ、次の信号を北に入り、高台に向かう薬師坂を上がる。途中に、地蔵堂があり、等
身大くらいのお地蔵さんが祭られていた。
台地まで上がって、西に進む静かな通りは「武家屋敷通り」と呼ばれ、江戸時代は家老の
若林家を始め、佐倉藩政を支えた上・中級武士の屋敷が建ち並んでいたという。
その一角に、後の日露戦争で重要な役割を果たした児玉源太郎が、佐倉連隊長時代の
明治13年(1880)から5年住んだという借家跡があった。
現在もお住まいの武家屋敷のうち、県や市の文化財になっている3棟が有料で公開されて
いる。これはその一つ、屋敷には入らず、門前からのぞかせてもらう。
往時の面影の残る通りを、西端にある寺院、大聖院の裏手まで進み、りっぱな孟宗竹の
竹林に挟まれたひよどり坂を下る。
折り返すように北側の坂を上がり、佐倉市民体育館の横に出て左折して西へ。日本瓦の
和風な造りの佐倉中や、佐倉東高の先に進んで、国立民俗博物館のくらしの民家苑に入る。
苑内では、毎年この時期に開催する「伝統の朝顔」の展示中。見たことのない花や葉の
珍しい朝顔がたくさん並んでいたが、詳しくは別稿にて紹介する。
15時半を過ぎたので国立民俗博物館の観覧は止めて、そろそろ帰路につくことにする。
植物苑の西側から、佐倉城趾の空堀の横を下って、姥が池のほとりへ。池のほとんどを
埋め尽くすスイレンの白い花が咲き出していた。
東側に広がる菖蒲田や草地の間の遊歩道を進んで、住宅街に入る。国道296号と平行
する南側の旧道に、以前来たときにも見た、かやぶきの民家が残っていた。
市役所の南側で、国道から駅前に通じる車道に出て、駅に向かう。国道沿いのレストラン、
ガストの壁面は、遮熱のためのゴーヤーがいっぱいに伸びている。
京成成田駅には、16時半頃に着いた。
(天気 曇一時雨、距離 5㎞、地図(1/2.5万) 佐倉、歩行地 佐倉市)
この日、8月3日、朝日新聞東京本社版夕刊、「be evening」の「美の履歴書」に、美術館で
観賞した、平田郷陽の作品「薬玉」(くすだま)が取り上げられた。
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