愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題-2 蘇東坡-(2)

2015-04-14 17:55:43 | 健康
最近、中国の有識者の間で中国語の簡体字では「愛には心がない、親に会えない」から繁体字を復活させようという提案があったというニュース記事を読んだ。

われわれが日常用いている“愛”の漢字(中国語での繁体字でもある)には、文字の中央に“心”という字が隠れています。しかし簡体字の“中央の心の字を除いた字”ではその“心”の文字が取り除かれています。また同様に“親”の簡体字は“見の字を除いた立木”であり、中国語で“会う”を意味する“見”が取り除かれています。すなわち「愛には心がない、親に会えない」ということになります。

漢字はその成り立ちから一文字一文字にある意味が込められているようです。この観点からして、漢詩を簡体字に置き換えて書いたときどうも見た目にもしっくり行かないばかりか、最少の字数で多くを語ろうとする詩にあっては、漢字自体の秘めた意味を失えば、作者の意図が読者に十分に伝わらないのではなかろうか とも思う。

ところで、先に蘇東坡-1で挙げた詩の第一句目の“嶺”と“峰”の文字について。国語辞典を見ると、“嶺”の項ではいわゆる“みね”の他“山なみ”という意味が記載されていて“連峰”の意味があり、一方、“峰”には“山の頂”を意味する表現しかない。これらを念頭に第一句を読むと、“横に看れば嶺と成り側には峰と成る”は、“(廬山全体を)横で(遠く離れて)見れば(峰々が連なった)嶺であり、側に(近づいていけば)そゝり立った(ひとつの)峰となる”。このような情景が想像されます。第2句の“遠近…云々”が活きてくるように
に思われます。

ちなみに、宇野直人・江原正士著『漢詩を読む』(平凡社)では、同第1句を“横にずっと見渡せば、廬山は連峰である。また側に立って見上げれば、高くそびえる峰である」と解釈している。

漢詩を解釈するとき、読み下しで“てにをは”の助詞を変えるだけで異なる解釈となり、また想像の主眼をどこに置くかによっても異なった表現となる。上の二人の専門家でも一見字面では異なった解釈となっているように見える。漢詩には、時、情況等、作者の意図はさておいて、素人は素人なりに想像の世界に遊ぶことができる というのも“漢詩を読む”愉しみの一つであるように思われる。大家白川静が解き明かした漢字の本来の意味を参考にするなら、さらに味わいが深まるでしょうが、未だ“嶺”と“峰”については調べていない。

注)簡体字は”?”に化けるので文で表現した。
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