愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題 192 飛蓬-99 小倉百人一首:(中納言兼輔)みかの原 

2021-02-01 10:05:40 | 漢詩を読む
27番 みかの原 わきて流るる 泉川(イヅミガハ)  
      いつ見きとてか 恋(コヒ)しかるらむ 
          中納言兼輔『新古今和歌集』恋・996           
<訳> みかの原から湧き出て、原を二分するようにして流れる泉川ではないが、いったいいつ逢ったといって、こんなに恋しいのだろうか(一度も逢ったことがないのに)。(小倉山荘氏) 

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昔、修行中の弘法大師が、飲水が欲しくて杖で地面をついたら、埋められた“みか”(甕・瓶)から水が湧き出て、泉川になった(?)という伝説があるとかー“みかの原”と“泉川”の名の由来。「いつ見」た(逢った)かは定かでないが、何とも恋しいあのひとであるよ。 

作者は、藤原兼輔(877~933)、平安時代中期の公家・歌人。紫式部の曽祖父に当たる人で、賀茂川堤に邸宅があったことから、堤中納言と号した。三十六歌仙の一人である。60代醍醐天皇(在位897~930)の外戚であったことから、その庇護を得て高官に昇った。 

七言絶句の漢詩としました。和歌では、“いづみ川”と“いつ見き…”の掛詞で“川”と“思い”を繋いでいます。漢詩では、「川の流れは元には戻らない(逝川)」のに、「“思い”は纏綿として蘇り、益々深まる」として“川”と“思い”を関連つけました。 

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<漢詩原文および読み下し文> [下平声十二侵韻] 
 害単思病     単思(タンシ)の病を害(ワズラ)う   
水湧泉河滋潤野, 水湧いて泉河(イズミガワ) 野(ヤ)を滋潤(ジジュン)するも, 
二分瓶原隔開心。 瓶原(ミカノハラ)を二分(ニブン)し 心を隔開(カクカイ)するか。 
所思何日逢値過, 所思(オモウトコロ)には 何れの日に逢値(ホウチ)せしか, 
異逝川安弥念深。 逝川(セイセン)と異なり 安(イズク)んぞ 弥(イヨ)いよ念(オモ)い深からん。
 註」 
  単思:片思い。       滋润:潤す。 
  泉河:泉川、現在の木津川。
  瓶原:みかの原、現京都府相楽郡加茂町、木津川の北側。かつて 
    聖武天皇の時代に、恭仁京(クニキョウ)が置かれた(740)地域。 
  所思:思うところ、恋人。「古詩十九首 其九」“将以遣所思”(将に以て 
    思う所に遣らん)に依る。  
  逢値:出会う、めぐり合う(三国・『周魴伝』)。 
  逝川:『論語』子罕(カン)の「川上の嘆」に基づいた謝瞻の詩句 
    “逝川豈往復”(川の流れはもとに戻ることはない)に拠る。 
  弥:いよいよ、ますます。 

<現代語訳> 
 片思いの恋煩い  
湧き出た水は泉川となって流れ、“みかの原”の土地を潤しているが、 
“みかの原”を二分して、二人の心を引き裂いているかのようだ。 
かの心に思っている人にはいつめぐり逢ったのであろうか、 
流れ去る川の水は返らぬが、どうして彼女への思いは再々蘇り深まるのであろう。 

·<簡体字およびピンイン> 
 害单思病 Hài dān sī bìng  
水涌泉河滋润野, Shuǐ yǒng Quánhé zīrùn yě, 
二分瓶原隔开心。 Èr fēn Píngyuán gé kāi xīn.  
所思何日逢值过, Suǒ sī hé rì féng zhí guò,  
异逝川安弥念深。 yì shì chuān ān mí niàn shēn. 
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藤原兼輔は、醍醐天皇の外戚であったことからその春宮時代から仕え、即位すると昇殿を許される。非蔵人として醍醐帝に仕える傍ら、右衛門少尉を兼ね、902年従五位下に叙爵する。

一方、醍醐帝の伯父で右大臣に登る定方(873~932、百人一首25番、閑話休題-129)は、兼輔の従兄弟で、義父に当たる。兼輔は、藤原北家嫡流ではないが、醍醐帝および定方の庇護を得て順調に昇進し、諸官を経て、最終官位は権中納言従三位右衛門督に至った。

賀茂川提近くに邸を構え、そこを中心に義父の定方はじめ紀貫之(同35番、閑話休題-140)や凡河内躬恒(オオシコウチノミツネ、同29番、閑話休題-177)らとサロンを形成し、文化人たちの庇護者的存在であった。和歌説話集・『大和物語』にはそこでの逸話がいくつも伝えられているという。

紫式部(同57番、閑話休題-122)の曽祖父に当たり、三十六歌仙の一人に選ばれている。『古今和歌集』(4首)以下の勅撰和歌集に56首入集し、家集に『兼輔集』がある。

当時、世に最もよく知られていた兼輔の歌は、下記の「人の親の…」であったという。醍醐帝の更衣となった娘の身を案じての親心の歌であると言われているようです。お酒の席で詠われた由であるが、真心が率直に詠われ、今に生きる時代を超えた歌であると言えようか。

なお紫式部の『源氏物語』の中では、この歌の断片または全体の形として、20数回引用されていると。“おじいちゃま”の歌ということもあろうが、やはり訴えるところがあるからでしょう。

人の親の 心は闇に あらねども 
   子を思う道に まどひぬるかな(『後撰和歌集』 雑 兼輔朝臣) 
  [子を持つ親の心は闇というわけではないが 子どものことになると 
  道に迷ったようにうろたえるものですな](小倉山荘氏) 
コメント
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