愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題 195 飛蓬-102 小倉百人一首:(持統天皇)春過ぎて

2021-02-15 10:19:13 | 漢詩を読む
2番 春過ぎて 夏きにけらし 白妙の 
      衣ほすてふ 天の香具山 
            持統天皇(『新古今和歌集』夏・175)              
<訳> いつの間にか春が過ぎて、いよいよ夏が来たようだ、あの天(アマ)の香具山に。夏になると真っ白な衣を干していたと言われており、(今、あのように衣が翻っているのですから)。(小倉山荘氏)

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新緑に映える聖なる天香具山に初夏の陽光を受けて真っ白な衣が翻っている、田植えが始まる初夏の訪れだ。昔、村の早乙女(サオトメ)たちが身を清めて、田の神様に神楽を奏上して豊作を願っていたという。身に纏う衣を陽に当てて、清めている情景なのだ。

作者は41代持統天皇(在位686~697)である。お米を主食とする農耕民族にとって、特に稲作は、政権中枢にとっても最重要関心事と言えよう。新装なった藤原京から天香具山を望むと、真っ白な衣が目にまぶしい。今年も豊作に恵まれ、国民が安寧であるように、と願ったことでしょう。

百人一首の巻頭に取り上げられた天智天皇(38代、在位668~671)の秋の稲の収穫真近の歌(閑話休題-193)に続いて、二番手として田植えに取り掛かる初夏の頃を詠った歌である。やはり『万葉集』にある歌の改変版である。七言絶句の漢詩としました。

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<漢字原文および読み下し文>    [上平声十五刪韻]  
 喜来到孟夏所插秧  插秧(タウエ)せし所の孟夏(モウカ)到来を喜ぶ  
空碧雲奇緑逾映、 空は碧(ヘキ)に雲は奇(キ)にして 緑逾(イヨイヨ)映(ハ)え、 
崗腰処処白妙斑。 崗(ヤマ)の腰(チュウフク)処処に白妙(シロタエ)斑(マダ゙ラ)にあり。 
伝説昔日插秧布、 伝説(イイツタエラレ)し昔日(セキジツ)の插秧(タウエ)の布(コロモ)ならん、 
春已夏天香具山。 春 已(スデ)に夏か 天(アマ)の香具山。 
 註] 
  雲奇:陶淵明の「四時の歌」の「夏雲奇峰多し」に拠る。 
  白妙:和歌での枕詞であることから、敢えて日本語そのままの形を活かした。
    また“白い布”という意味もある。 
  插秧布:和歌の中の“白妙の衣”とは? 初夏、田植えの時期、村の娘たちが 
    早乙女の資格を得るために、山に入って物忌みのお隠(コモ)りをしている、
    彼女らの“斎服”であるとする説を考慮した。 
  天香具山:奈良県橿原市にある大和三山の一つ。“香具山”は固有名詞、 
    この山は天から降りてきたという伝説がある。
    そこで「天(アマ)の」が頭につく。 
   
<現代語訳> 
 初夏田植えの時期到来を喜ぶ     
真っ青な空には奇雲が浮かび、山の若緑はますます照り映えている、 
山の中腹の所々には白い布が干してあり、斑模様に見える。 
言い伝えられている、昔干してあったという早乙女の田植え衣であろうか、 
春はすでに過ぎて夏になったのだなあ、天の香久山に。 

<簡体字およびピンイン> 
 喜来到孟夏所插秧 Xǐ láidào mèngxià suǒ chāyāng  
空碧云奇绿逾映,Kōng bì yún qí lǜ yú yìng, 
岗腰处处白妙斑。gǎng yāo chùchù báimiào bān. 
传说昔日插秧布,Chuánshuō xīrì chāyāng bù,  
春已夏天香具山。chūn yǐ xià tiān Xiāngjùshān. 
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地図を開くと、持統帝が造営した藤原京のあった場所を取り囲むように大和三山がある:東南に天香具(アマノカグ)山、西南に畝傍(ウネビ)山、東北に耳成(ミミナシ)山。地図上の記載は”天香具山”であるが、地域名勝の地名としては”香具山”のようである。

標高152mの小高い山・天香具山は、天から降ってきたという伝説があり、古代から聖なる山として崇められてきた と。『万葉集』でも13首に歌の対象とされている由。今日なお季節行事の一つとして“御田植祭”が執り行われているようである。

農耕民族にとって特に稲作に関わる農事は、特別の意味合いがあったと思われる。聖なる天香具山は、稲作の豊作を願い、あるいは豊作に感謝の意を表する場として、“信仰?”の対象とされたのではないでしょうか。山に翻る“白妙の衣”に、単なる叙景としてではなく、田植えの始まる時期と読み取っていたのでしょう。

持統帝(645~702;鸕野讃良皇女 ウノノサララノヒメミコ)は、天智天皇の第2皇女である。13歳で天智帝の弟・大海人皇子( オオアマノオウジ; ?~686;40代天武天皇:在位673~686)に嫁いでいる。病の天智帝を見舞ったのちの大海人の吉野行には行動をともにした。

天智帝薨御の翌年、大海人は「壬申の乱」(672)を起こし、天智帝の第一皇子・大友皇子(39代弘文天皇;在位671~672)を近江大津京で自害に追いやった。鸕野讃良もこの乱を「ともに謀った」とされている。

大海人皇子が即位(673)すると、鸕野讃良は皇后として、常に天武帝の傍にいて、政事を補佐したという。685年頃から、天武帝が病気がちになると、皇后が代わって統治者として存在感を高めていった と。

686年天武帝が没すると、大津皇子の謀反が発覚、皇子は自殺に追いやられた。皇太子・草壁皇子のライバルと目され、鸕野讃良が先手を打って、亡き者にしたのではないかと考える人が多い と。大津皇子は、鸕野讃良の実姉・大田皇女と天武帝との間に生まれた皇子である。

しかし草壁皇子は病没する(689)。皇位継承計画の変更を余儀なくされ、鸕野讃良は、草壁の子・珂留(カル)/軽皇子(当時7歳)を望むが若齢故に立太子も憚られた。そこで自ら即位することにした。史上3人目の女帝・持統天皇である。

「日本律令体制の基礎は天武政権の下で定まった」と言われるほどに、国の形を整える上で、歴史上天武朝の意義は非常に大きかったようである。「日本」、「天皇」という称号を使い始めたのは天武帝とされている。

律令の編纂や身分制度の制定等多くの改革が天武帝の許で発案・開始され、持統帝の時代に完成を見ている。文化面においても、各地の土着文化を掘り起こす『風土記』や歴史書『古事記』および『日本書紀』、漢詩集『懐風藻』の編纂等々、多くが天武-持統期の成果と言えそうです。

日本歴史を語る上で忘れてならない“藤原氏”は?「壬申の乱」の折、藤原不比等(フヒト)は13歳、若年故にか?“お咎めの目”から逃れた。大舎人の登用制度により出仕し下級官人からのスタート。皇室に取り入り、42代文武天皇(珂留皇子)の擁立に尽力する。

以後、大宝律令の編纂に中心的役割を果たし、表舞台に登場する。文武天皇2年(698)、不比等の子孫のみが藤原姓を名乗り、太政官の官職に就くことができるとされた。従兄弟たちは中臣朝臣姓とされ、神祇官として祭祀のみを担当することになった。

『万葉集』(成立年不詳)に収められた持統帝の歌(下記)を読みます。見たままの叙景歌であるが、訴える力が強く感じられる。ほぼ500余年後に改変され、『新古今集』(1205年成立)に収載された歌は、回顧的な伝聞歌となり、奥行きが感じられないように思えるが如何であろう。

春過ぎて 夏来たるらし 白妙の
  衣干したり 天の香具山 (『萬葉集』巻一 二十八) 
コメント
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