愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題 209 飛蓬-116 『新撰万葉集』(菅原道真) 奥(オク)山(ヤマ)丹(ニ)

2021-05-13 15:16:08 | 漢詩を読む
百人一首-5番 猿丸大夫 
 奥山に 紅葉踏みわけ 鳴く鹿の 声聞く時ぞ 秋はかなしき 

ooooooooooooo  
前回の当ブログに読者の方からコメントを頂きました:「…… 猿丸大夫の歌の菅原道真による漢詩版があった ……」と。かねて機会があれば紹介しよう と思っていた矢先、ちょうどよい機会ですので、ここで取り上げます。 

出典は、菅原道真(845~903)が著した『新撰万葉集』です。万葉仮名表記の和歌と漢詩七言絶句から構成されており、当歌の例は下に示しました。 “読み下し文と註”、“現代語訳”および“簡体字とピンイン”の部は、参考として筆者が付しました。 

なお、投稿頂いたRumiさんからは、度々刺激的なコメントを頂いております。必ずしもお役に立つお答えはできませんが、機会を見ては話題として取り上げて、共に勉強の機会となれば と念じております。今後ともよろしくお願いします。 

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<万葉かな> 菅原道真 著『新撰万葉集』から 
オクヤマニ モミジフミワケナクシカノ コエキクトキゾアキハ カナシキ 
奥山丹黄葉蹈別鳴麋之音聴時曽秋者金敷
 
<漢詩原文および読み下し文> [韻:日本語音読み レイ] 
秋山寂寂葉零零, 秋山 寂寂(セキセキ)として葉 零零たり, 
麋鹿鳴音数処聆。 麋鹿(ビロク) 鳴く音 数(アマタ)の処に聆(キ)く。 
勝地尋来遊宴処, 勝地(ショウチ) 尋(タズ)ね来たりて遊宴の処, 
無朋無酒意猶冷。 朋(トモ)無く酒も無く 意(ココロ)猶(ナ)お冷(サム)し。
 註] 
  寂寂:ひっそり寂しいさま。  零:おとろえる、しおれる。
  麋鹿:オオシカの一種。角はシカに、尾はロバに、脚はウシに、首は 
    ラクダに似ているが、全体ではどれにも似ていないので、 
    “四不像(シフゾウ)”と呼ばれる。 
  聆:聞く、さとる。

<現代語訳> 
秋の山は寂しく、木の葉はしおれ落ちている、 
あちこちから鹿の鳴き声が聞こえてくる。 
景勝の場所に訪ねきており、酒盛りの宴が相応しい所だが、 
連れは無く、また酒も無い 心はますます寂しくなる。 

<簡体字およびピンイン> 
秋山寂寂叶零零, Qiūshān jí jí yè líng líng,   
麋鹿鸣音数处聆。 mílù míng yīn shù chù líng.  
胜地寻来游宴处, Shèngdì xún lái yóu yàn chù, 
无朋无酒意犹冷。 wú péng wú jiǔ yì yóu lěng. 
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頂いたコメントで 「“競作ライバル、平安人と腕比べ……」と、ひと鞭当てられた格好ですが、とてもとても!? 恐れ多くも、思うだに冷や汗ものです。道真公は、微塵ほどでも”恩沢“を賜って頂けるものならば…と足元に跪き、手を合わせる”学問の神様“です。 

“競作ライバル”という言葉に拘って、少しばかり思いを巡らしてみたいと思っています。筆者が目指すのは、あくまでも日本文化の華/宝である素晴らしい和歌を漢詩に翻訳すること。微力ながら、漢語圏の人々に、歌の作者の“こころを伝える”ことができたら…と 大それた想いを胸に秘めつつ。 

道真の漢詩については、結論から言えば、決して翻訳ではない、と筆者は考えております。元歌を読みこなした後、“自らの思い”を主眼/主題とした“翻案”あるいは“派生詩(うた)”であり、独立した“道真作”の詩作品と捉えるべきであろうと考えております。意外なことですが、『新撰万葉集』中の、漢詩を“翻訳”と考えている方々が結構おられるのも事実ですが。 

その根拠を、実際に和歌および漢詩について愚考し、紐解いていきたく思います。和歌では、「紅葉が散り始める山の様子にはそれなりに秋の侘/悲しさを感ずるが、“雌を求めて彷徨っている鹿の鳴き声を聞く時こそ”特に悲しさを感ずる」と詠っております。 

一方、漢詩では、「紅葉が散り始め、あちこちから鹿の鳴き声が聞こえて来る侘しい季節、“この景勝地にあって友たちと遊宴したいところ、一人の友もいない、お酒も無い”、一層寂しさが募る」と。わびしさの元凶、すなわち歌/詩の主眼/主題が、一方は“鹿の鳴き声”、他方は”友無し・酒無し“と全く異なります。明らかに”翻訳“ではなく、”翻案“の詩であると考える方が妥当であると考えられます。 

『新撰万葉集』中、すべての歌/漢詩を検討したわけではありませんが、目にした十数首については、漢詩は、やはり“翻訳”ではなく “翻案”と見做すべき作品と言えます。以上は筆者の私見です。未だ手にしていませんが、世には已に同書の研究著書が幾つかあります。是非先達の研究成果を調べてみたいと思っているところです。

なお、参考までに筆者の愚作を読み下し文と共に末尾に示しました。元歌に忠実に…と心がけたつもりです。上述のように、幸いにも道真公と“競作ライバル”の立場にはないものと確信し、胸を撫で下ろしております。 

二三興味を引く点を挙げると、万葉仮名については、すべて漢字の音読みで、今日、内容が理解できる用語・用法です。ただ“金敷(=悲しき)”と突飛な用法もあります。また漢詩については、1,2、4句の脚韻は、邦語の「れい」の音読みでしっかりと韻を踏んでいます。しかし近代漢詩のルールで見ると、1,2句は韻を踏んでいますが、4句の語“冷”が外れた韻の語です。やはり時の変遷あるいはお国の違いを感じます。

菅原道真および猿丸大夫については、それぞれ、閑話休題-137および-141をご参照ください。但し猿丸大夫の漢詩は、下記のごとくに一部修正しました。

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 季秋有懐      季秋に懐(オモ)い有り   [上平声四支韻] 
遥看深山秋色奇, 遥かに看(ミ)る深山 秋色奇(キ)なり, 
蕭蕭楓景稍許衰。 蕭蕭(ショウショウ)として楓の景(アリサマ)に稍許(イササ)か衰えあり。 
呦呦流浪踏畳葉, 呦呦(ヨウヨウ)鳴きつつ畳(チリシイ)た葉を踏んで流浪(サマヨ)うか, 
聞声此刻特覚悲。 鹿の鳴き声を聞くその時こそ 特に秋の悲しさを覚える。 
コメント
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