51番 かくとだに えやは伊吹の さしも草
さしも知らじな 燃ゆる思ひを
藤原実方朝臣 (『後拾遺和歌集』恋一・612)
<訳> こんなにあなたを恋い慕っているとさえ言うことができないのだから、伊吹山のさしも草のように燃える私の恋心を、あなたは知るはずもないのでしょうね。(板野博行)
oooooooooooooo
初恋の女性に贈った恋文に添えた歌である と。何ともコテコテに凝った技巧満載の歌で、初心(ウブ)な心情を一層引き立てているように思われる。歳の頃十代の後半でしょうか。作者は、イケメンの貴公子である。
作者・藤原実方(サネカタ、?~998)は、貞信公・忠平(閑話休題-162)の曾孫で、イケメンの風流才子、清少納言をはじめ多くの女性との交際があったとされている。官位は正四位下、左近衛中将まで昇進したが、ある事が発端で突然陸奥守に左遷されている。
歌の詞書に「初めて女性に贈った」とあり、漢詩では同主旨の詩題とした。
xxxxxxxxxxxxx
<漢詩原文および読み下し文> [去声二十号韻]
呼吁炽热的恋情 熾熱(シレツ)な恋情を呼吁(コウ)す
斯恋情思在心奥, 斯(カ)くも恋情(レンジョウ)の思い心奥(シンオウ)に在(ア)り,
但一言也不能告。 但(タ)だ一言さえ告げる能(アタ)わず。
如伊吹艾熾熱念, 伊吹(イブキ)の艾(ヨモギ)の如く熾熱な念(オモ)い,
肯定君此没覚到。 肯定(カナラズ)や 君は此を覚到(サト)らずにいよう。
註]
熾熱:灼熱な。 呼吁:訴える、アピールする。
伊吹艾:伊吹山の艾(モグサ)。 肯定:まちがいなく、きっと。
<現代語訳>
熱烈な恋情を訴える
斯くも恋い慕う思いは 胸の内にあるのに、
一言も打ち明けることさえできないでいる。
伊吹山の艾が燃えるような熱烈なこの思い、
きっとあなたは悟ることがないままでいるのでしょう。
<簡体字およびピンイン>
呼吁炽热的恋情 Hūyù chìrè de liànqíng
斯恋情思在心奥, Sī liànqíng sī zài xīn ào,
但一言也不能告。 dàn yī yán yě bù néng gào.
如伊吹艾炽热念, Rú Yīchuī ài chìrè niàn,
肯定君此没觉到。 kěndìng jūn cǐ méi jué dào.
xxxxxxxxxxxxx
藤原実方は、平安中期の貴族・歌人。太政大臣・貞信公・忠平の曾孫、左大臣・師尹(モロタダ)の孫、侍従・定時の子息。父・定時が早逝したため、叔父で大納言・済時(ナリトキ)の養子となる。左近衛将監を経て従五位下に叙爵(973)し、侍従に任ぜられる(975)。
以後順調に昇進し、従四位上(993)、翌年(994)には左近衛中将に叙任され、公卿の座を目前にするが、995年正月に突然陸奥守に左遷される。同年養父・済時が没し、喪が明けた後、陸奥国に出発した。赴任の奏上の際、正四位下に叙せられた。
実方は、慣習に拘らない大胆な振る舞いが多く、優れた舞人としても活躍、ハンサムで華やかな貴公子として宮中では花形であった由。多くの女性と恋愛関係を持ち、特に清少納言とは深い関係にあったことを伺わせる贈答歌が遺されている。また『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルの一人ともされている。
実方は、公任(百人一首55番、閑話休題148)、源重之(同48番、閑話休題181)や藤原道信(同52番)らと親しくしていた と。歌合せなど晴れの歌は少なく、恋愛関係にあった女性との贈答歌が多い。『拾遺和歌集』(7首)以下の勅撰和歌集に67首入集され、家集に『実方朝臣集』がある。中古三十六歌仙の一人である。
陸奥国への左遷については諸説あるようである。その一つ、当代の能書家として三蹟の一人に数えられている藤原行成(ユキナリ)との争いに関する逸話がある。その経緯は以下のようであり、説話集『撰集抄』(センジュウショウ)に載っている と。
ある時、殿上人達が花見に出かけ、にわか雨に遭った。皆さんが我さきにと雨を避けて大騒ぎになったが、実方はひとり平然として、桜の木の下に留まり、次の歌を詠んだ と:
さくらがり 雨は降り来ぬ おなじくは
濡るとも花の 陰にくらさん(撰集抄 巻八)
[桜狩りの最中に雨が降り出した、同じ濡れるなら そのまま桜の花の下で
過ごすことにしよう]
風流貴公子の面目躍如たる振る舞いに思える。後日この経緯を知った行成は「歌はおもしろし。実方は痴(おこ)なり」と評した と。その評を伝え聞いた実方は、行成に恨みを抱くようになる。
偶然、殿上で両者が出会った際に口論となり、怒った実方はいきなり行成の冠を奪って投げ捨てるという事件が起こった。事情を知った一条帝の怒りに触れ、実方は、「歌枕を見てまいれ」と、陸奥国行きを命じられた。
赴任3年後、馬に騎乗し見回り中、事故に遭い任地で没している。40歳の頃とされている。左遷され、遠い任地で客死したこともあり、その人物像や没後の逸話等々、様々な説話が語られている。
さしも知らじな 燃ゆる思ひを
藤原実方朝臣 (『後拾遺和歌集』恋一・612)
<訳> こんなにあなたを恋い慕っているとさえ言うことができないのだから、伊吹山のさしも草のように燃える私の恋心を、あなたは知るはずもないのでしょうね。(板野博行)
oooooooooooooo
初恋の女性に贈った恋文に添えた歌である と。何ともコテコテに凝った技巧満載の歌で、初心(ウブ)な心情を一層引き立てているように思われる。歳の頃十代の後半でしょうか。作者は、イケメンの貴公子である。
作者・藤原実方(サネカタ、?~998)は、貞信公・忠平(閑話休題-162)の曾孫で、イケメンの風流才子、清少納言をはじめ多くの女性との交際があったとされている。官位は正四位下、左近衛中将まで昇進したが、ある事が発端で突然陸奥守に左遷されている。
歌の詞書に「初めて女性に贈った」とあり、漢詩では同主旨の詩題とした。
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<漢詩原文および読み下し文> [去声二十号韻]
呼吁炽热的恋情 熾熱(シレツ)な恋情を呼吁(コウ)す
斯恋情思在心奥, 斯(カ)くも恋情(レンジョウ)の思い心奥(シンオウ)に在(ア)り,
但一言也不能告。 但(タ)だ一言さえ告げる能(アタ)わず。
如伊吹艾熾熱念, 伊吹(イブキ)の艾(ヨモギ)の如く熾熱な念(オモ)い,
肯定君此没覚到。 肯定(カナラズ)や 君は此を覚到(サト)らずにいよう。
註]
熾熱:灼熱な。 呼吁:訴える、アピールする。
伊吹艾:伊吹山の艾(モグサ)。 肯定:まちがいなく、きっと。
<現代語訳>
熱烈な恋情を訴える
斯くも恋い慕う思いは 胸の内にあるのに、
一言も打ち明けることさえできないでいる。
伊吹山の艾が燃えるような熱烈なこの思い、
きっとあなたは悟ることがないままでいるのでしょう。
<簡体字およびピンイン>
呼吁炽热的恋情 Hūyù chìrè de liànqíng
斯恋情思在心奥, Sī liànqíng sī zài xīn ào,
但一言也不能告。 dàn yī yán yě bù néng gào.
如伊吹艾炽热念, Rú Yīchuī ài chìrè niàn,
肯定君此没觉到。 kěndìng jūn cǐ méi jué dào.
xxxxxxxxxxxxx
藤原実方は、平安中期の貴族・歌人。太政大臣・貞信公・忠平の曾孫、左大臣・師尹(モロタダ)の孫、侍従・定時の子息。父・定時が早逝したため、叔父で大納言・済時(ナリトキ)の養子となる。左近衛将監を経て従五位下に叙爵(973)し、侍従に任ぜられる(975)。
以後順調に昇進し、従四位上(993)、翌年(994)には左近衛中将に叙任され、公卿の座を目前にするが、995年正月に突然陸奥守に左遷される。同年養父・済時が没し、喪が明けた後、陸奥国に出発した。赴任の奏上の際、正四位下に叙せられた。
実方は、慣習に拘らない大胆な振る舞いが多く、優れた舞人としても活躍、ハンサムで華やかな貴公子として宮中では花形であった由。多くの女性と恋愛関係を持ち、特に清少納言とは深い関係にあったことを伺わせる贈答歌が遺されている。また『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルの一人ともされている。
実方は、公任(百人一首55番、閑話休題148)、源重之(同48番、閑話休題181)や藤原道信(同52番)らと親しくしていた と。歌合せなど晴れの歌は少なく、恋愛関係にあった女性との贈答歌が多い。『拾遺和歌集』(7首)以下の勅撰和歌集に67首入集され、家集に『実方朝臣集』がある。中古三十六歌仙の一人である。
陸奥国への左遷については諸説あるようである。その一つ、当代の能書家として三蹟の一人に数えられている藤原行成(ユキナリ)との争いに関する逸話がある。その経緯は以下のようであり、説話集『撰集抄』(センジュウショウ)に載っている と。
ある時、殿上人達が花見に出かけ、にわか雨に遭った。皆さんが我さきにと雨を避けて大騒ぎになったが、実方はひとり平然として、桜の木の下に留まり、次の歌を詠んだ と:
さくらがり 雨は降り来ぬ おなじくは
濡るとも花の 陰にくらさん(撰集抄 巻八)
[桜狩りの最中に雨が降り出した、同じ濡れるなら そのまま桜の花の下で
過ごすことにしよう]
風流貴公子の面目躍如たる振る舞いに思える。後日この経緯を知った行成は「歌はおもしろし。実方は痴(おこ)なり」と評した と。その評を伝え聞いた実方は、行成に恨みを抱くようになる。
偶然、殿上で両者が出会った際に口論となり、怒った実方はいきなり行成の冠を奪って投げ捨てるという事件が起こった。事情を知った一条帝の怒りに触れ、実方は、「歌枕を見てまいれ」と、陸奥国行きを命じられた。
赴任3年後、馬に騎乗し見回り中、事故に遭い任地で没している。40歳の頃とされている。左遷され、遠い任地で客死したこともあり、その人物像や没後の逸話等々、様々な説話が語られている。