52番 明けぬれば 暮るるものとは 知りながら
なほ恨めしき あさぼらけかな
藤原道信朝臣『後拾遺集』恋二・672
<訳> 夜が明けてしまうと、また日が暮れて夜になる(そしてあなたに逢える)とは分かっているのですが、それでもなお恨めしい夜明けです。(小倉山荘氏)
oooooooooooooo
当時、恋仲にあっては男が女の家で夜を過ごし、翌朝(後朝)に自宅に帰る。帰宅後に便りを届けるのが礼儀でした。当歌は後朝の歌で、やがて日が暮れて再会できると分かってはいても、夜明けは何とも恨めしいと、別れの切なさを詠っています。
作者・藤原道信(972~994)は、平安中期の貴族・歌人。法住寺太政大臣・藤原為光の3男で、摂政・藤原兼家の養子となる。順調に昇進し、官位は従四位上、左近衛中将に至る。和歌に秀でた雅な貴公子であったと。23歳という若さで亡くなっています。
詩題を「後朝の便り」として、七言絶句の漢詩としました。
xxxxxxxxxxxxx
<漢詩原文および読み下し文> [上平声十灰韻]
後朝之信 後朝(コウチョウ)の信(タヨリ)
天亮継而飛日回、 天亮(テンリョウ)に継(ツ)いで飛ぶがごとくに日は回(メグ)り、
自知幽会暮就来。 自(オノ)ずから知る 幽会(ユウカイ)の暮 就(ジキ)に来るを。
依依離汝往家走、 依依(イイ)として汝(ナンジ)に離(ワカ)れて家(イエ)に走(カエ)る、
還是黎明抱怨催。 還(ナオ)是(コレ) 黎明(レイメイ)に抱怨(ボウエン)を催す。
註]
天亮:夜が明ける。 継而:続いて。
飛:(飛ぶように)速い。 幽会:逢い引き。
依依:後ろ髪を惹かれるさま。 黎明:夜明け、黎明。
抱怨:恨み言を言う。
<現代語訳>
後朝の便り
夜が明けたら飛ぶように早く日はめぐり、
再会できる暮れ時が直に訪れることは分かっている。
貴方と別れて、後ろ髪を惹かれる思いで、家路に着きましたが、
やはり、別れて帰る夜明けには恨めしさを感じずにはいられないのだ。
<簡体字およびピンイン>
后朝之信 Hòu zhāo zhī xìn
天亮继而飞日回, Tiānliàng jì'ér fēi rì huí,
自知幽会暮就来。 zì zhī yōuhuì mù jiù lái.
依依离汝往家走、 Yīyī lí rǔ wǎng jiā zǒu,
还是黎明抱怨催。 hái shì límíng bàoyuàn cuī.
xxxxxxxxxxxxx
道信は、為光の3男、母が謙徳公(百人一首45番、閑話休題-161)の娘である。14歳時(986)に時の権力者、兼家の養子となり、従五位上に直叙され、侍従に任じられた。以後、順調に昇進、従四位上、左近衛中将に至った。
奥ゆかしい性格で、見た目も申し分なく、特に和歌の才に秀でていて、雅な貴公子であったと。歌人の藤原公任(同55番、閑話休題-148)、藤原実方(同51番、閑話休題-207)、藤原信方らと親しくしていた。
藤原道長(966~1027)が全盛を窮め、花山(在位984~986)‐一条天皇(在位986~1011)の治世下、王朝文化の花満開の頃に当たるでしょうか。紫式部、和泉式部、赤染衛門、伊勢大輔等々、煌びやかな花園で、道信は青春を謳歌したことでしょう。
当歌は、若い道信の恋情が何の飾り・技巧もなく直截的に詠われているように思える。道信は、中古三十六歌仙のひとりで、『拾遺和歌集』(2首)以下の勅撰和歌集に49首入集しており、家集に『道信朝臣集』がある。
990年、養父・兼家が、また2年後に実父・為光が相次いで亡くなっている。道信は、994年正月従四位上に叙されたが、同年7月に急逝している。天然痘罹病によるという。享年23歳であった。
道信には、若き貴公子の面目躍如たる恋の逸話がある。相手は為平親王の娘・婉子(エンシ)女王で花山天皇の女御。宮中に入った翌年天皇は出家した。道信は恋歌を贈るなど働きかけたが、女王は権力者・藤原実資に嫁した。その折、女王に贈った歌が『大鏡』に遺されている:
うれしきは いかばかりかは 覚ゆらむ
憂きはみにしむ ここちこそすれ (『大鏡』「右大臣師輔」)
[あなたは想いが叶って どんなにかうれしいことでしょう。
わたしは深く身に浸む哀しい思いに暮れています]
なほ恨めしき あさぼらけかな
藤原道信朝臣『後拾遺集』恋二・672
<訳> 夜が明けてしまうと、また日が暮れて夜になる(そしてあなたに逢える)とは分かっているのですが、それでもなお恨めしい夜明けです。(小倉山荘氏)
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当時、恋仲にあっては男が女の家で夜を過ごし、翌朝(後朝)に自宅に帰る。帰宅後に便りを届けるのが礼儀でした。当歌は後朝の歌で、やがて日が暮れて再会できると分かってはいても、夜明けは何とも恨めしいと、別れの切なさを詠っています。
作者・藤原道信(972~994)は、平安中期の貴族・歌人。法住寺太政大臣・藤原為光の3男で、摂政・藤原兼家の養子となる。順調に昇進し、官位は従四位上、左近衛中将に至る。和歌に秀でた雅な貴公子であったと。23歳という若さで亡くなっています。
詩題を「後朝の便り」として、七言絶句の漢詩としました。
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<漢詩原文および読み下し文> [上平声十灰韻]
後朝之信 後朝(コウチョウ)の信(タヨリ)
天亮継而飛日回、 天亮(テンリョウ)に継(ツ)いで飛ぶがごとくに日は回(メグ)り、
自知幽会暮就来。 自(オノ)ずから知る 幽会(ユウカイ)の暮 就(ジキ)に来るを。
依依離汝往家走、 依依(イイ)として汝(ナンジ)に離(ワカ)れて家(イエ)に走(カエ)る、
還是黎明抱怨催。 還(ナオ)是(コレ) 黎明(レイメイ)に抱怨(ボウエン)を催す。
註]
天亮:夜が明ける。 継而:続いて。
飛:(飛ぶように)速い。 幽会:逢い引き。
依依:後ろ髪を惹かれるさま。 黎明:夜明け、黎明。
抱怨:恨み言を言う。
<現代語訳>
後朝の便り
夜が明けたら飛ぶように早く日はめぐり、
再会できる暮れ時が直に訪れることは分かっている。
貴方と別れて、後ろ髪を惹かれる思いで、家路に着きましたが、
やはり、別れて帰る夜明けには恨めしさを感じずにはいられないのだ。
<簡体字およびピンイン>
后朝之信 Hòu zhāo zhī xìn
天亮继而飞日回, Tiānliàng jì'ér fēi rì huí,
自知幽会暮就来。 zì zhī yōuhuì mù jiù lái.
依依离汝往家走、 Yīyī lí rǔ wǎng jiā zǒu,
还是黎明抱怨催。 hái shì límíng bàoyuàn cuī.
xxxxxxxxxxxxx
道信は、為光の3男、母が謙徳公(百人一首45番、閑話休題-161)の娘である。14歳時(986)に時の権力者、兼家の養子となり、従五位上に直叙され、侍従に任じられた。以後、順調に昇進、従四位上、左近衛中将に至った。
奥ゆかしい性格で、見た目も申し分なく、特に和歌の才に秀でていて、雅な貴公子であったと。歌人の藤原公任(同55番、閑話休題-148)、藤原実方(同51番、閑話休題-207)、藤原信方らと親しくしていた。
藤原道長(966~1027)が全盛を窮め、花山(在位984~986)‐一条天皇(在位986~1011)の治世下、王朝文化の花満開の頃に当たるでしょうか。紫式部、和泉式部、赤染衛門、伊勢大輔等々、煌びやかな花園で、道信は青春を謳歌したことでしょう。
当歌は、若い道信の恋情が何の飾り・技巧もなく直截的に詠われているように思える。道信は、中古三十六歌仙のひとりで、『拾遺和歌集』(2首)以下の勅撰和歌集に49首入集しており、家集に『道信朝臣集』がある。
990年、養父・兼家が、また2年後に実父・為光が相次いで亡くなっている。道信は、994年正月従四位上に叙されたが、同年7月に急逝している。天然痘罹病によるという。享年23歳であった。
道信には、若き貴公子の面目躍如たる恋の逸話がある。相手は為平親王の娘・婉子(エンシ)女王で花山天皇の女御。宮中に入った翌年天皇は出家した。道信は恋歌を贈るなど働きかけたが、女王は権力者・藤原実資に嫁した。その折、女王に贈った歌が『大鏡』に遺されている:
うれしきは いかばかりかは 覚ゆらむ
憂きはみにしむ ここちこそすれ (『大鏡』「右大臣師輔」)
[あなたは想いが叶って どんなにかうれしいことでしょう。
わたしは深く身に浸む哀しい思いに暮れています]